梨紗は少し残念そうな表情を浮かべつつも、どうしても諦めきれずに尋ねた。
「その方、前金ですか? 全額ですか? 連絡先は残していますか? もしよければその方に連絡してもらえませんか? どうしても欲しいんです。もしキャンセルなら、私が買いますので」
「えっと……お相手は今日また来ると言っていましたが、時間は分からなくて」
梨紗が時計を見ると、すでに7時を回っている。店は10時で閉まるが、この時間に現れないなら、もう来ないかもしれない。
「連絡先はありますか?」
「一応、あります」
「では、私が直接お話ししますので、ご迷惑にはなりません」
店長が連絡先を探そうとしたその時、二人の男女が店に入ってきた。
「店長、予約していた文房四宝、もう用意できましたか?」
聞き覚えのある声に、梨紗も裕亮も思わずそちらを見た。
裕亮は梨紗を振り返り、梨紗は少し眉をひそめた。
店長はすぐに若菜のところへ駆け寄る。
「お待ちしておりました! 実はこのお嬢さんもこの文房四宝をご希望されていまして、お問い合わせをいただいていました。ちょうどいいので、お二人でお話しされては?」
若菜と梨紗の視線がぶつかる。
「あなたも欲しいの?」と若菜。
梨紗は視線を外し、「もういらないわ」とだけ言い、別の贈り物を見に行った。
梨紗には分かっていた。文房四宝は宗一郎に一番喜ばれる品で、紀康もそれを知っている。若菜を連れてきて選ばせたのも、彼の助言だろう。
裕亮はわざと大きな声で言った。
「梨紗、他にもいろいろあるぞ。気に入ったのがあれば、俺が買うから」
梨紗はその意図を察し、そっと微笑んだ。
だが、若菜と紀康の目には、その笑みが違う意味に映った。
若菜が紀康に目を向けると、紀康は店長に「包んでください。残金も支払います」と告げた。
若菜はすぐに「私が払います。あなたのお父さんの誕生日ですし、いつも払わせてばかりじゃ…」と申し出る。
「誰が払っても同じさ。自分のお金はちゃんと取っておきなよ」
「でも、私も気持ちを伝えたいから」
「俺が言わなきゃ、父さんには分からないよ」
紀康はあっさりと支払いを済ませた。
この文房四宝は百万円もする高価な品だったが、紀康は少しもためらわなかった。
店長は満面の笑みを浮かべる。
「神崎さんは本当に奥様に惜しみなく尽くされていて、羨ましいご夫婦ですね」
裕亮は思わず口を挟みかけたが、梨紗に制止された。
裕亮は梨紗を見たが、彼女は首を横に振る。
裕亮はぐっと堪えて、紀康を睨みつけた。
若菜は包みを受け取り、笑顔で紀康を見た。
「準備できたわ。あなたは?」
「とっくにできてるよ。行こう」
若菜は店長に一礼し、店長も丁重に二人を見送った。
店長が戻ると、店員が小声で聞いた。
「店長、あの二人って結婚してないですよね? 交際の噂も多いし、若菜さんも最近否定していたはずですが…」
「なに言ってるんだ。芸能界でやっていくための建前さ。見なかったか? 神崎社長はあんなにお金を注いでるんだ。きっと付き合ってるよ。ただ公表するタイミングを探してるだけだ」
「でも、“奥様”って呼んでいいんですか?」
「何が問題だ? 神崎さんがあれだけ喜んでたんだ。うちを贔屓にしてくれるかもしれないし、大口の顧客を掴めたら、これから安泰じゃないか」
この骨董店は広くもなく、品揃えも多くない。だからこそ、店長は紀康のような客を囲い込みたかった。
梨紗は裕亮に目配せし、裕亮も察して出口に向かう。
店長が慌てて呼び止める。
「お嬢さん、お兄さん、もうお帰りですか? 他に気になる品はございませんか?」
梨紗は淡い笑みを浮かべる。
「特にありません」
それ以上何か言われる前に、裕亮とともに店を出た。
外に出ると、裕亮は我慢できずに声を上げた。
「腹立つな、あいつら! 梨紗、よく我慢できたな?」
「我慢じゃなくて、本当にもう気にしてないの」
裕亮は梨紗の落ち着いた横顔を見て、ため息をついた。
「まあ、そうだな。あんな連中、気にするだけ損だ。でも、あの様子だと、若菜を誕生日パーティーに連れていくつもりだな」
「どうでもいいわ。次の店に行こう」
裕亮は心の中で、むしろ連れて行けばいいのに、と思っていた。宗一郎が梨紗の存在を公表するというなら、みんなの前で若菜がどんな立場なのか、はっきりさせてやればいい。
梨紗は次の店で酒器を一つ買った。宗一郎は元気だった頃、お酒が好きで、病気になってからは飲まなくなったが、酒器のコレクションは続けていた。その地下室で、ずっと探していた品がこれだった。
それが手に入っただけでも、満足だった。
買い物を終えた後、梨紗は裕亮と食事をして、それぞれ家に帰った。
翌日、会社に向かうと、オフィスビルの前で那須太郎にばったり会った。
梨紗は無視して通り過ぎようとしたが、那須太郎が立ちはだかる。
「梨紗、少し話そう」
「話すことなんてないわ」
「いいから、あっちで話そう」
梨紗の冷たい態度も構わず、彼女を近くのカフェに連れて行った。
「梨紗、何飲む? パパがおごるよ」
今まで一度もお金をかけてくれたことのない那須太郎の言葉に、梨紗は思わず苦笑した。
「いりません。用件だけ話して。仕事に戻らないと」
那須太郎も本気で奢る気はなかったのか、梨紗が断ると自分だけアメリカンコーヒーを注文した。
「梨紗、明日はお義父さんの誕生日パーティーだろう。できれば出席しないでほしい」
さすが「身内」だ。たとえ一緒に暮らしていなくても、的確に彼女の痛いところを突いてくる。
「どういう意味?」
「君のためを思って言ってるんだ。たとえ宗一郎さんが明日君の存在を公にしても、若菜には何の影響もない。みんな二人のことは知ってるが、正式に認めていなければ大した問題じゃない。
分かるだろう、この世界の金持ちの男なんて、みんな何人も女がいる。
紀康がこの業界でどれだけ力を持っているか、君も知ってるだろう? 結局は、君が哀れだと同情されるだけで、彼が君を本気で愛していないと思われるだけだ」
梨紗は、その分析が間違っていないことを分かっていた。あの世界にはあまり関わらないようにしてきたが、噂は聞いている。
「若菜が紀康と一緒になりたいなら、君たちが離婚すれば彼女はすぐにでも一緒になれる。君に何の影響もない。君も私の娘だ。できるだけ傷ついてほしくない、惨めな思いはさせたくないんだ」