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第90話 実父の妨害、裏にある思惑


梨紗は少し残念そうな表情を浮かべつつも、どうしても諦めきれずに尋ねた。


「その方、前金ですか? 全額ですか? 連絡先は残していますか? もしよければその方に連絡してもらえませんか? どうしても欲しいんです。もしキャンセルなら、私が買いますので」

「えっと……お相手は今日また来ると言っていましたが、時間は分からなくて」


梨紗が時計を見ると、すでに7時を回っている。店は10時で閉まるが、この時間に現れないなら、もう来ないかもしれない。


「連絡先はありますか?」

「一応、あります」

「では、私が直接お話ししますので、ご迷惑にはなりません」


店長が連絡先を探そうとしたその時、二人の男女が店に入ってきた。

「店長、予約していた文房四宝、もう用意できましたか?」


聞き覚えのある声に、梨紗も裕亮も思わずそちらを見た。


裕亮は梨紗を振り返り、梨紗は少し眉をひそめた。


店長はすぐに若菜のところへ駆け寄る。


「お待ちしておりました! 実はこのお嬢さんもこの文房四宝をご希望されていまして、お問い合わせをいただいていました。ちょうどいいので、お二人でお話しされては?」


若菜と梨紗の視線がぶつかる。


「あなたも欲しいの?」と若菜。


梨紗は視線を外し、「もういらないわ」とだけ言い、別の贈り物を見に行った。


梨紗には分かっていた。文房四宝は宗一郎に一番喜ばれる品で、紀康もそれを知っている。若菜を連れてきて選ばせたのも、彼の助言だろう。


裕亮はわざと大きな声で言った。

「梨紗、他にもいろいろあるぞ。気に入ったのがあれば、俺が買うから」


梨紗はその意図を察し、そっと微笑んだ。


だが、若菜と紀康の目には、その笑みが違う意味に映った。


若菜が紀康に目を向けると、紀康は店長に「包んでください。残金も支払います」と告げた。


若菜はすぐに「私が払います。あなたのお父さんの誕生日ですし、いつも払わせてばかりじゃ…」と申し出る。


「誰が払っても同じさ。自分のお金はちゃんと取っておきなよ」

「でも、私も気持ちを伝えたいから」

「俺が言わなきゃ、父さんには分からないよ」


紀康はあっさりと支払いを済ませた。


この文房四宝は百万円もする高価な品だったが、紀康は少しもためらわなかった。


店長は満面の笑みを浮かべる。

「神崎さんは本当に奥様に惜しみなく尽くされていて、羨ましいご夫婦ですね」


裕亮は思わず口を挟みかけたが、梨紗に制止された。


裕亮は梨紗を見たが、彼女は首を横に振る。


裕亮はぐっと堪えて、紀康を睨みつけた。


若菜は包みを受け取り、笑顔で紀康を見た。


「準備できたわ。あなたは?」

「とっくにできてるよ。行こう」


若菜は店長に一礼し、店長も丁重に二人を見送った。


店長が戻ると、店員が小声で聞いた。

「店長、あの二人って結婚してないですよね? 交際の噂も多いし、若菜さんも最近否定していたはずですが…」


「なに言ってるんだ。芸能界でやっていくための建前さ。見なかったか? 神崎社長はあんなにお金を注いでるんだ。きっと付き合ってるよ。ただ公表するタイミングを探してるだけだ」


「でも、“奥様”って呼んでいいんですか?」


「何が問題だ? 神崎さんがあれだけ喜んでたんだ。うちを贔屓にしてくれるかもしれないし、大口の顧客を掴めたら、これから安泰じゃないか」


この骨董店は広くもなく、品揃えも多くない。だからこそ、店長は紀康のような客を囲い込みたかった。


梨紗は裕亮に目配せし、裕亮も察して出口に向かう。


店長が慌てて呼び止める。

「お嬢さん、お兄さん、もうお帰りですか? 他に気になる品はございませんか?」


梨紗は淡い笑みを浮かべる。

「特にありません」


それ以上何か言われる前に、裕亮とともに店を出た。


外に出ると、裕亮は我慢できずに声を上げた。

「腹立つな、あいつら! 梨紗、よく我慢できたな?」


「我慢じゃなくて、本当にもう気にしてないの」


裕亮は梨紗の落ち着いた横顔を見て、ため息をついた。

「まあ、そうだな。あんな連中、気にするだけ損だ。でも、あの様子だと、若菜を誕生日パーティーに連れていくつもりだな」


「どうでもいいわ。次の店に行こう」


裕亮は心の中で、むしろ連れて行けばいいのに、と思っていた。宗一郎が梨紗の存在を公表するというなら、みんなの前で若菜がどんな立場なのか、はっきりさせてやればいい。


梨紗は次の店で酒器を一つ買った。宗一郎は元気だった頃、お酒が好きで、病気になってからは飲まなくなったが、酒器のコレクションは続けていた。その地下室で、ずっと探していた品がこれだった。


それが手に入っただけでも、満足だった。


買い物を終えた後、梨紗は裕亮と食事をして、それぞれ家に帰った。


翌日、会社に向かうと、オフィスビルの前で那須太郎にばったり会った。


梨紗は無視して通り過ぎようとしたが、那須太郎が立ちはだかる。

「梨紗、少し話そう」


「話すことなんてないわ」


「いいから、あっちで話そう」


梨紗の冷たい態度も構わず、彼女を近くのカフェに連れて行った。


「梨紗、何飲む? パパがおごるよ」


今まで一度もお金をかけてくれたことのない那須太郎の言葉に、梨紗は思わず苦笑した。


「いりません。用件だけ話して。仕事に戻らないと」


那須太郎も本気で奢る気はなかったのか、梨紗が断ると自分だけアメリカンコーヒーを注文した。


「梨紗、明日はお義父さんの誕生日パーティーだろう。できれば出席しないでほしい」


さすが「身内」だ。たとえ一緒に暮らしていなくても、的確に彼女の痛いところを突いてくる。


「どういう意味?」


「君のためを思って言ってるんだ。たとえ宗一郎さんが明日君の存在を公にしても、若菜には何の影響もない。みんな二人のことは知ってるが、正式に認めていなければ大した問題じゃない。


分かるだろう、この世界の金持ちの男なんて、みんな何人も女がいる。


紀康がこの業界でどれだけ力を持っているか、君も知ってるだろう? 結局は、君が哀れだと同情されるだけで、彼が君を本気で愛していないと思われるだけだ」


梨紗は、その分析が間違っていないことを分かっていた。あの世界にはあまり関わらないようにしてきたが、噂は聞いている。


「若菜が紀康と一緒になりたいなら、君たちが離婚すれば彼女はすぐにでも一緒になれる。君に何の影響もない。君も私の娘だ。できるだけ傷ついてほしくない、惨めな思いはさせたくないんだ」

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