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第3話



「ええ。相性の問題で……反応してしまうんです。そうすると、こうして、薫りが強くなります」


 恭介には、一体彼が何を言っているのか解らなかった。


「芳香異体というのを聞いたことは?」

 彼は席へ戻って、茶を入れ始める。けれども胸元はまだ寛げたままで、恭介はなんとなく、目のやり場に困ってしまう。


「芳香異体? 聞いたことはないです」


「正式にこういう体質の事を指す言葉なのか、私にも解りませんが」と前置きしながら、彼は続ける。「『源氏物語』に薫という人が出てきます。この人は、産まれながらに良い芳香のする人だったと言うことで……。この人に対抗して、匂宮という人は、沢山の香をたきしめていたとか。

 自然な薫る、に対して、匂う、ですから嫌な言葉の使い分けです」


「じゃあ、あなたは、その、なんとかという体質なんですか……? それだと、茶店でお茶を出すのには、なんとなく向いていないように思えますけど……」


 お茶の邪魔になるほどの芳香なのだから、商売としては良くないだろう。

 だが、店主は、お茶を入れている。


「確かに、薫りは邪魔ですね。……けれど、普通にしていれば、あの蓮のおかげで、薫りは抑えられているのです」


 なんとなくそれが店主が言った『願掛け』という言葉に繋がる気がした。


「それが『願掛け』ですか?」


「……そうですね。蓮の花を百万本。揃えれば、私のこの薫りは消えるそうです」


「百万本って……この池には、百万本も咲かないでしょう……? いくら何でも……」


 外を見やったとき、恭介は目を疑った。

 ここはビルの谷間だったはずだ。だが、ビルは一つもない。ただ水平線の彼方まで、びっしりと蓮の花で埋め尽くされている。


「な、なんなんだ……これ……」


 訳が分からなくなって呟くと、店主は、ふふ、と笑った。


「……あなたの欲望が、あなたをここへ連れてきたのですよ」


「欲望って……」


「幼い頃、あなた、ここへきた事がありますよね? そして……、あの時、私と約束をした」


 恭介は鳥肌が立つのを感じていた。


(ここは、ヤバイ……)

 人の世界じゃない。ここに居て良いはずがない。だが。


「これが約束の証」

 そっと彼は指を見せた。白い指。そこに、朱い糸が付いている。そして、彼は、恭介の手を取った。そこにも、朱い糸が結びついている。


「……なんの約束だ……?」

 店主は、淡く微笑んでいる。何を考えて居るのか、何の約束をしたのか、恭介は解らない。


「あなたが、私を……誘ったのでしょう……?」

 誘ったということは、そう言う意味だろう。


 彼の薫りが、さらに強くなる。甘くて何も考えられなくなりそうになる。だがれそれに抗いながら、恭介は彼に言う。


「……俺は、あなたを誘ったと……?」


「ええ。……十年後の満月の夜、とお誘い頂きましたよ」

 今日の月が、満月だか新月だか、そんなのはスピリチュアル系の人しか知らないだろうと悪態を吐こうとしたが、出来なかった。


 テーブルを乗り越えて、彼が身を乗り出してきた。

 そのまま、キスをされたからだった。


 キスは―――酷く甘かった。彼の薫りと同じように。


 茶器が転がって、彼とは違い類いの甘い薫りが広がっていく。


 長いキスが終わったとき、恭介は、自身が興奮していることに気が付いた。先ほどの、甘く熟れた茱萸のような胸の突起を、思う存分に貪りたいという、強烈な衝動を無理やり抑えつける。


「あんたは、一体何なんだ?」


「……さて」

 彼は小首を傾げる。さらり、と黒髪が揺れた。


 黒髪の乱れを思った時、子供の頃に見た、あの性交のシーンを思い出した。でっぷりと太った男に好き勝手に蹂躙されていたのは……この店主ではなかったか。


 十年、姿を変えないでいるところを見ると、この店主は、人ではないのだろう。


 だが、かわしたという約束が思い出せない。


「あんた、確かに、俺は……約束をしたのか……?」

 そう聞くと、彼は悲しそうに微苦笑して「この朱い糸が何よりの証だというのに」と小さく告げた。


 その様子を見るに、約束というのは嘘ではないのだろう。だが、身体の代償に精気を抜かれるだとか、命をとられるだとか、そう言うことがあるのは困る。


 それに、約束の内容が全く思い出せない。


「俺は、全くあんたとの約束を思い出せないんだ……。それって、どういう内容だったんだ? 教えてくれよ。命に関わらないようなことなら……、約束を守っても良いとおもうんだけどさ……」


「約束を……覚えていたから、ここへいらしたのでは?」

 彼は、目を見開いていた。随分と、ショックだったらしい。


「今の今まで、約束なんか解らなかった。ただ……アンタが、なんか、でっぷりとしたジジイに抱かれてたのは思い出した」


 そう告げた瞬間、彼の顔が、これ以上ないほど朱くなった。

 これは、覚えていてはならないものだったのだ。そう悟ったときには遅かった。


「……この茶を飲む前に、お帰り下さい。……何も覚えていないのならば、それまでのこと……」

 彼の手が恭介の手を掴む。ぐい、と引っ張って、そのまま店の外へと出されてしまう。


「店主っ!!」


「約束を覚えておいでではないのだから、もうここへはいらっしゃらないで」


 さようなら。

 そう彼が告げた瞬間。


 クラクションが鳴り響く、交差点のど真ん中に、立ち尽くしていた。




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