帝都・大和。
夜の帳が降りると、柳の並木が淡く揺れ、提灯の灯が石畳を照らし出す。
雨の名残をわずかに残す路地の奥、金唐紙の屏風が立つ門の内に、その屋敷はあった。
――男遊宴楼・春ノ屋。
華族や高官、財閥の子息など、いわゆる“選ばれた者”たちだけが通される、帝都でも最も格式高い場所。妓の名を挙げて指名せねば、一見では決して中へは通されない。だがその分、門をくぐった者には、“夢のような一夜”が約束されていた。
黒塀の奥に、煌びやかさよりも品格を湛えた佇まい。
ひとたび足を踏み入れれば、現の世の煩わしさは、ひととき遠ざかる。
その春ノ屋で、今、最も名を馳せているのが――
「……千朶(ちしだ)様。お支度、整いました」
奥座敷の障子の向こう、控えの間に声がかかる。
襖が開かれる音とともに、そこに現れたのは、一人の少年だった。
白磁の肌に、淡く光を反射する銀の髪。背中まで流れるそれを、菫色の紐で結い上げている。目元は涼やかで、伏し目がちに微笑むと、その瞳はごく淡い紅に染まった。
その姿を見ただけで、女中たちは小さく息を呑んだ。
帯には牡丹と薄の刺繍が施され、薄紫の裾からわずかに足首が覗く。涼やかな白の着物に、藤色の組紐。装いはどこまでも控えめであるのに、なぜか――艶めいて見えた。
まるでそこだけ、春が香るようだった。
「今日のお客様は……?」
千朶が問えば、女中が紙を差し出す。
「帝国陸軍少佐、葦原瑛士(あしはら・えいじ)様。ご指名です。お初にお目にかかりますが……軍服の方は久しぶりですね」
ふうん、と千朶は唇に扇を寄せて笑った。
「軍人なんて、碌なものじゃないのに」
「……千朶様」
小言めいた声に、千朶は微笑を解かなかった。
からかうような笑みではない。ただ、静かに笑っているのに、なぜか女中の胸にぞくりとした寒気が走る。
「いいんだよ。今夜は、少し“毒”が効いてる方がいい。……そうだろ?」
それだけ言って、彼は静かに立ち上がった。
歩みはまっすぐ、姿勢は揺るがず。
すれ違う者たちが皆、視線を伏せる。
“惚れ薬の白狐”。
春ノ屋において、そう呼ばれる存在。
――千朶は、春ノ屋の“顔”であり、“象徴”だった。
酒を注ぎ、肌を見せるのではない。
彼がするのは、ただ舞い、詩を謳い、扇をひとひら傾けること。
それだけで、男たちは“堕ちて”いくのだ。
勝手に、欲情し、勝手に、惚れ、勝手に、破滅する。
彼は何もしていない。
ただそこに在るだけで、春の香のように人を狂わせる。
――それが、“惚れ薬の白狐”。
決して手を出されず、ただ“見つめられるだけ”で心を奪われるという、不思議な男。
彼の名を知る者は、少ない。
彼の素を語る者は、いない。
それでも、月に一度、年に一度でも――その姿を見たいと願う客は後を絶たなかった。
そして、彼をひと目見た者は、誰もが同じことを言うのだ。
──あれは、獣だ。けれど、人よりも美しい。
──人の理を超え、心を溶かす、“魔性”そのもの。
障子の奥、今宵の客が待つ座敷の前で、千朶は足を止めた。
そっと、帯の結び目を指で押さえる。
吐息を一つ、静かに吐いた。
(――帝国軍、ね)
蘇る記憶は碌なものじゃない。
父を奪い、母を病に追いやり、自分を売り飛ばした、あの“国のかたち”。
その縮図が、今夜、向こう側に座っている。
ならば、どんな顔をしているのか、見てやろう。
そしてせいぜい弄んでやろう。
少し目を合わせて微笑んでやれば勝手に“堕ちる”。
相手がどんなに“整って”いても、どれだけ“優しく”微笑んでみせても――
この身を、許すつもりはない。
だから、笑おう。
いつものように。
“惚れ薬の白狐”として。
千朶は、扇を開いてそっと微笑む。
そして――襖を、静かに開けた。