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白き狐と軍服の獣
白き狐と軍服の獣
めがねあざらし
BL現代BL
2025年06月30日
公開日
1万字
連載中
帝都・大和―― 春の香が漂う男遊宴楼〈春ノ屋〉には、“惚れ薬の白狐”と呼ばれる男妓がいた。 名は千朶(ちしだ)。 誰よりも美しく、誰の手にも堕ちぬ“檻の中の狐”は、舞い、詩を謳い、ただ一瞥で男たちを狂わせる。 そんな千朶のもとに現れたのは、帝国陸軍の少佐・葦原瑛士(あしはら・えいじ)。 感情を殺し、命令に忠実な“軍の獣”。 誰の色香にもなびかぬその男が、千朶の扇の一振りすら無視して立ち去った夜―― 千朶のなかで、静かに“熱”が芽吹き始める。 惹かれてはいけない。 手を伸ばせば、すべてが壊れる。 けれど、なぜか惹かれてしまう―― 血と因縁に絡め取られた二人の出会いは、やがて帝都の闇を暴き、運命を暴き、 千朶自身の“真実”を炙り出してゆく。 これは、檻に咲いた白狐が、 たった一人の男のために外へ踏み出す物語。 大正風浪漫BL。

第一章『春ノ屋に咲く白狐』

 帝都・大和。


 夜の帳が降りると、柳の並木が淡く揺れ、提灯の灯が石畳を照らし出す。


 雨の名残をわずかに残す路地の奥、金唐紙の屏風が立つ門の内に、その屋敷はあった。




 ――男遊宴楼・春ノ屋。




 華族や高官、財閥の子息など、いわゆる“選ばれた者”たちだけが通される、帝都でも最も格式高い場所。妓の名を挙げて指名せねば、一見では決して中へは通されない。だがその分、門をくぐった者には、“夢のような一夜”が約束されていた。




 黒塀の奥に、煌びやかさよりも品格を湛えた佇まい。


 ひとたび足を踏み入れれば、現の世の煩わしさは、ひととき遠ざかる。




 その春ノ屋で、今、最も名を馳せているのが――




「……千朶(ちしだ)様。お支度、整いました」




 奥座敷の障子の向こう、控えの間に声がかかる。


 襖が開かれる音とともに、そこに現れたのは、一人の少年だった。




 白磁の肌に、淡く光を反射する銀の髪。背中まで流れるそれを、菫色の紐で結い上げている。目元は涼やかで、伏し目がちに微笑むと、その瞳はごく淡い紅に染まった。




 その姿を見ただけで、女中たちは小さく息を呑んだ。




 帯には牡丹と薄の刺繍が施され、薄紫の裾からわずかに足首が覗く。涼やかな白の着物に、藤色の組紐。装いはどこまでも控えめであるのに、なぜか――艶めいて見えた。




 まるでそこだけ、春が香るようだった。




 「今日のお客様は……?」




 千朶が問えば、女中が紙を差し出す。




 「帝国陸軍少佐、葦原瑛士(あしはら・えいじ)様。ご指名です。お初にお目にかかりますが……軍服の方は久しぶりですね」




 ふうん、と千朶は唇に扇を寄せて笑った。




 「軍人なんて、碌なものじゃないのに」


 「……千朶様」




 小言めいた声に、千朶は微笑を解かなかった。




 からかうような笑みではない。ただ、静かに笑っているのに、なぜか女中の胸にぞくりとした寒気が走る。




 「いいんだよ。今夜は、少し“毒”が効いてる方がいい。……そうだろ?」




 それだけ言って、彼は静かに立ち上がった。




 歩みはまっすぐ、姿勢は揺るがず。


 すれ違う者たちが皆、視線を伏せる。




 “惚れ薬の白狐”。




 春ノ屋において、そう呼ばれる存在。




 ――千朶は、春ノ屋の“顔”であり、“象徴”だった。




 酒を注ぎ、肌を見せるのではない。


 彼がするのは、ただ舞い、詩を謳い、扇をひとひら傾けること。




 それだけで、男たちは“堕ちて”いくのだ。


 勝手に、欲情し、勝手に、惚れ、勝手に、破滅する。




 彼は何もしていない。


 ただそこに在るだけで、春の香のように人を狂わせる。




 ――それが、“惚れ薬の白狐”。




 決して手を出されず、ただ“見つめられるだけ”で心を奪われるという、不思議な男。




 彼の名を知る者は、少ない。


 彼の素を語る者は、いない。


 それでも、月に一度、年に一度でも――その姿を見たいと願う客は後を絶たなかった。




 そして、彼をひと目見た者は、誰もが同じことを言うのだ。




 ──あれは、獣だ。けれど、人よりも美しい。


 ──人の理を超え、心を溶かす、“魔性”そのもの。




 障子の奥、今宵の客が待つ座敷の前で、千朶は足を止めた。




 そっと、帯の結び目を指で押さえる。


 吐息を一つ、静かに吐いた。




 (――帝国軍、ね)




 蘇る記憶は碌なものじゃない。


 父を奪い、母を病に追いやり、自分を売り飛ばした、あの“国のかたち”。




 その縮図が、今夜、向こう側に座っている。


 ならば、どんな顔をしているのか、見てやろう。


 そしてせいぜい弄んでやろう。


 少し目を合わせて微笑んでやれば勝手に“堕ちる”。




 相手がどんなに“整って”いても、どれだけ“優しく”微笑んでみせても――


 この身を、許すつもりはない。




 だから、笑おう。


 いつものように。


 “惚れ薬の白狐”として。




 千朶は、扇を開いてそっと微笑む。


 そして――襖を、静かに開けた。


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