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第二章『匂い立つ獣と人』

 襖を開けた瞬間、座敷に漂う空気が、わずかに揺れた。


 香の気配でも、酒の香りでもない。もっと――本能に訴えかけるような、乾いた、鋭い“気配”。




 帝国陸軍少佐・葦原瑛士。




 その名は、軍部内では知らぬ者のない存在だった。


 若くして昇進を重ね、前線においては“無敗の獣”と囁かれる戦功を誇る。


 だが、彼に纏う気配は、英雄のそれではなかった。


 命令を疑わず、情に流されず、ただ“国家の犬”として任務を遂行する男。




 冷静で、非情。だが、無駄に血を流すことを嫌う。


 彼の周囲では、不思議と“死”の匂いだけが消えていく。


 敵にとっては脅威、部下にとっては盾。恐れられながらも信頼される存在――それが葦原瑛士という男だった。




 床の間を背に、黙って腰を下ろしているその姿は、まさに獣を思わせた。




 軍服の上衣を脱ぎ、黒のシャツに革の手袋。


 金の飾緒を外した階級章が、傍らの卓に置かれている。


 肩幅の広い体躯は無駄がなく、無骨で、どこか沈んで見えた。


 姿勢のどこにも隙がなく、まるで戦場にあっても同じように座しているのでは、と思わせる。




 視線が合った。




 凍ったような灰色の瞳。真っ直ぐで、どこまでも冷たい。


 人を値踏みするでも、欲を孕むでもない。


 ただ、ひと目で“底が見えない”と感じさせる眼だった。




 千朶は、微笑んだ。




「……お待たせしました。春ノ屋の千朶でございます。初めてのお運びですね?」




 いつもと同じ声色、同じ所作。


 しかし、男は動じなかった。




「葦原瑛士。以後、世話になる」




 低い声だった。掠れも濁りもない。規律に育てられた喉だ、と千朶は即座に理解した。




「少佐殿……?」


「その肩書きは、外した。ここでは一介の男として来ている」




 なるほど、と千朶は扇を唇に当てた。


 軍人としての威圧は、最初から削ぎ落としている。だがその物腰は、逆に隙を与えない。




 手練れの獣のような男――獣人ではない、だが本能の匂いがする。




「では、気を抜いていただいてかまいませんよ。ここは“戦場”ではありませんので」




 冗談めかして笑うと、男の瞳が、わずかに細められた。


 それは微笑ではなかった。ただ、観察者の目に切れ込みが入っただけだ。




(ハン……ちっとも、面白くない男だな)




 千朶は座布団に膝を折り、ゆるやかに身を下ろす。


 わざと足首を崩し、膝頭を見せる。たおやかな仕草、薄く香る衣擦れ。




 だが――男は、千朶の体を一瞥すらしなかった。




「そちらの酒、お口に合いました?」




 千朶が注ぐと、葦原は杯を受け取る。


 指先が触れ合った一瞬、千朶はわざと“熱”をこめてみせた。Ωの体温を、匂い立つように。




 だが――反応は、ない。




(……なに?)




 初めてだった。


 ここまで至近で向き合って、“手も、視線も動かない”相手など。


 千朶の匂いは、通常のΩよりも遥かに濃く、甘く、官能を煽る。




 なのに、この男は微動だにしない。


 酒をひと口、静かに飲むだけ。




 千朶をまるで、そこに置かれた花のように扱っている。


 それは侮蔑でも、敬意でもない。




 ただ――“触れてはならないもの”を見る目だった。




(……ふふ。いいね。これは、面白い)




 千朶は唇の端を吊り上げた。


 今宵、千朶のなかで何かがきしりと動き出す。


 獣人でもなく、Ωでもない。


 “人間”として、この男に火をつけたくなった。




 酒を注ぎ、たまに言葉を交わす。


 そうして過ぎた時間の後に、葦原はスッと立ち上がった。




「また、来てくださいますか?」


「気が向けば」




 振り返ることも、礼を求めることもなく、足を出口へと向かわせる。


 背中が、障子の向こうに消えていく。




 その姿が見えなくなった瞬間――


 千朶の奥底で、何かがふっと、熱を持って芽吹いた。




 (なるほど、ね。本当、面白くないな)




 春ノ屋の白狐が、初めて“手に入らない男”に出会った夜だった。




 ※




 香の残る座敷をあとにして、自室へと戻った千朶は、衣を脱がずに床に腰を下ろした。


 まだ熱の残る杯を両手で包み、静かに目を伏せる。




 ──葦原瑛士。




 肩書きを脱ぎ捨て、手も触れずに帰っていった男。


 視線はまっすぐだった。無欲、とも違う。諦念とも少し違う。




 ……あれは“見極める目”だった。




「……何をしに来た?」




 ぽつりとつぶやいた声は、自室の静寂に吸い込まれていく。




 色を買いに来たのなら、あのまま次の間に連れ込めば良かった。


 最もそこから先を務めるのは他の者にはなるが。


 癒しが欲しかったなら、膝枕の一つも頼めばいい。


 情報が目的なら、紫苑を指名するはず。




 なのに――何もせずに、見て、帰っていった。




 あの男は、この場所に“何を求めて来た”のだろう?


 帯の結び目に指を滑らせながら、考える。




(……いや、違う)




 扇を置き、帯を解く。


 細い指先が、自らの胸元にふれ、喉元にかかる玉の汗をなぞる。


 香と熱と、獣の本能を誘うために整えたこの身体に、彼は一瞥すらよこさなかった。




 まるで、最初から――“触れるつもりがない”と決めていたような。




(もしあれが、ただの人間なら……あんな目は、しない)




 不意に、記憶がよぎる。




 ──父の声。


 “共に生きる世界があると信じろ。人も、獣も、等しく”


 ──母の涙。


 “信じたから、あなたがいるのよ”




 「……信じるわけ、ないじゃないか」




 独り言のように呟きながら、帯を緩め、衣を落とす。


 薄紅に染まった瞳が、ふと鏡の向こうに映った自分と合う。


 その瞳が、どこか――さみしげに笑っていた。




 浴衣を肩かけ直し、白粉を軽く拭い、千朶が廊下へ出ると、そこには一人の男が寄りかかっていた。




「……あれ、部屋に戻ったんじゃなかったの」




 男――藍月(らんげつ)は、軽く目元を撫でながら振り向く。




 春ノ屋において千朶と双璧と呼ばれた芸妓の一人。


 藍地の単衣を身にまとい、髪はうなじで緩く束ねられている。


 琥珀色の瞳と、月の光に透けるような白茶の髪。


 胡弓のように色香のある目元に、狐めいた睨みを宿した青年だった。




 千朶のような“魔性”ではなく、“妖艶と気怜”を武器に男たちを手玉に取る、柔と鋭を併せ持つ存在。


 藍月は、千朶が春ノ屋で“唯一、気を許せる相手”だった。




 慰め合うことも、手を貸し合うこともない。けれど、この男の前では、言葉の端に力を入れなくてもよかった。


 春ノ屋で生きるということの、重さも、虚しさも、互いに知っている――それだけで、十分だった。




「気になってたんだよ、お前。あんな“真っ黒な軍服”が客だなんて、珍しいじゃないか」


「ふふ。見てのとおり、ぼくには不発だったみたい」




 千朶がからかうように微笑めば、藍月は「やれやれ」と言わんばかりにため息をつく。




「お前がそう言うってことは、よほど妙な男だったんだな」




 千朶は答えず、ふいに廊下の障子に寄りかかった。


 藤の模様が、衣の肩に影を落とす。




「ねえ、藍月。……ここってさ、檻なのかな」




 問いかけに、藍月の目がほんの少しだけ細められる。




「千朶、お前、また変な夢でも見たか」


「ちがうよ。ただ――思っただけ」




 ほんの少しだけ本音をこぼしたその瞬間、足音もなく現れた人物があった。




「夢を見られるうちは、檻じゃないさ」




 艶のある声だった。




 現れたのは、楼主――紫苑(しおん)。




 夜会用の紗を羽織り、淡い香の風を纏って歩く姿は、誰よりも“娼館の主”としての品と威厳を感じさせる。




「紫苑さん……」


「何を怖がっている。お前は春ノ屋の“看板”だ。ここにいる者たちの希望であり、象徴であり――」




 言葉を切って、紫苑は優しく微笑んだ。




「……ただの、ひとりの子供でもある。無理に笑わなくていい。ここでは、自分を守ることが許されている」




 その言葉に、千朶の胸が少しだけ、じんわりと温かくなる。




 ――春ノ屋は、買われる場所ではない。


 この場所だけは、“選び取る”ことが許されている。




 父を失い、母をなくし、名を奪われたこの身であっても――


 ここにいる限り、自分は「物」ではないのだと、初めて思えた場所だった。




 だから、こそ。




 あの男のことが、引っかかって仕方がない。




「……ねえ、紫苑さん。あの人、また来ると思う?」




 千朶が問えば、紫苑はふと目を細めた。




「来るだろうな。あの眼は、“未だ満たされぬ者”の眼だった。……千朶、お前、気をつけなさい」


「なにを?」


「お前が“惚れさせる”のは、簡単だ。でも、惚れてしまったら――おしまいだ」




 紫苑はそう言って、静かに去っていった。


 藍月は言葉もなく、千朶の肩を一度だけぽんと叩いて、そのあとを追っていく。




 取り残された廊下に、わずかな沈黙と、香の余韻だけが残った。




 千朶は、指先で帯の結び目をゆるく撫でながら、ぽつりと呟く。




「……だったら、どうすればいいのかな」




 千朶の小さな呟きは、夜の闇にそっと吸われた。




 二日後の夜――


 葦原は、再び春ノ屋を訪れた。


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