襖を開けた瞬間、座敷に漂う空気が、わずかに揺れた。
香の気配でも、酒の香りでもない。もっと――本能に訴えかけるような、乾いた、鋭い“気配”。
帝国陸軍少佐・葦原瑛士。
その名は、軍部内では知らぬ者のない存在だった。
若くして昇進を重ね、前線においては“無敗の獣”と囁かれる戦功を誇る。
だが、彼に纏う気配は、英雄のそれではなかった。
命令を疑わず、情に流されず、ただ“国家の犬”として任務を遂行する男。
冷静で、非情。だが、無駄に血を流すことを嫌う。
彼の周囲では、不思議と“死”の匂いだけが消えていく。
敵にとっては脅威、部下にとっては盾。恐れられながらも信頼される存在――それが葦原瑛士という男だった。
床の間を背に、黙って腰を下ろしているその姿は、まさに獣を思わせた。
軍服の上衣を脱ぎ、黒のシャツに革の手袋。
金の飾緒を外した階級章が、傍らの卓に置かれている。
肩幅の広い体躯は無駄がなく、無骨で、どこか沈んで見えた。
姿勢のどこにも隙がなく、まるで戦場にあっても同じように座しているのでは、と思わせる。
視線が合った。
凍ったような灰色の瞳。真っ直ぐで、どこまでも冷たい。
人を値踏みするでも、欲を孕むでもない。
ただ、ひと目で“底が見えない”と感じさせる眼だった。
千朶は、微笑んだ。
「……お待たせしました。春ノ屋の千朶でございます。初めてのお運びですね?」
いつもと同じ声色、同じ所作。
しかし、男は動じなかった。
「葦原瑛士。以後、世話になる」
低い声だった。掠れも濁りもない。規律に育てられた喉だ、と千朶は即座に理解した。
「少佐殿……?」
「その肩書きは、外した。ここでは一介の男として来ている」
なるほど、と千朶は扇を唇に当てた。
軍人としての威圧は、最初から削ぎ落としている。だがその物腰は、逆に隙を与えない。
手練れの獣のような男――獣人ではない、だが本能の匂いがする。
「では、気を抜いていただいてかまいませんよ。ここは“戦場”ではありませんので」
冗談めかして笑うと、男の瞳が、わずかに細められた。
それは微笑ではなかった。ただ、観察者の目に切れ込みが入っただけだ。
(ハン……ちっとも、面白くない男だな)
千朶は座布団に膝を折り、ゆるやかに身を下ろす。
わざと足首を崩し、膝頭を見せる。たおやかな仕草、薄く香る衣擦れ。
だが――男は、千朶の体を一瞥すらしなかった。
「そちらの酒、お口に合いました?」
千朶が注ぐと、葦原は杯を受け取る。
指先が触れ合った一瞬、千朶はわざと“熱”をこめてみせた。Ωの体温を、匂い立つように。
だが――反応は、ない。
(……なに?)
初めてだった。
ここまで至近で向き合って、“手も、視線も動かない”相手など。
千朶の匂いは、通常のΩよりも遥かに濃く、甘く、官能を煽る。
なのに、この男は微動だにしない。
酒をひと口、静かに飲むだけ。
千朶をまるで、そこに置かれた花のように扱っている。
それは侮蔑でも、敬意でもない。
ただ――“触れてはならないもの”を見る目だった。
(……ふふ。いいね。これは、面白い)
千朶は唇の端を吊り上げた。
今宵、千朶のなかで何かがきしりと動き出す。
獣人でもなく、Ωでもない。
“人間”として、この男に火をつけたくなった。
酒を注ぎ、たまに言葉を交わす。
そうして過ぎた時間の後に、葦原はスッと立ち上がった。
「また、来てくださいますか?」
「気が向けば」
振り返ることも、礼を求めることもなく、足を出口へと向かわせる。
背中が、障子の向こうに消えていく。
その姿が見えなくなった瞬間――
千朶の奥底で、何かがふっと、熱を持って芽吹いた。
(なるほど、ね。本当、面白くないな)
春ノ屋の白狐が、初めて“手に入らない男”に出会った夜だった。
※
香の残る座敷をあとにして、自室へと戻った千朶は、衣を脱がずに床に腰を下ろした。
まだ熱の残る杯を両手で包み、静かに目を伏せる。
──葦原瑛士。
肩書きを脱ぎ捨て、手も触れずに帰っていった男。
視線はまっすぐだった。無欲、とも違う。諦念とも少し違う。
……あれは“見極める目”だった。
「……何をしに来た?」
ぽつりとつぶやいた声は、自室の静寂に吸い込まれていく。
色を買いに来たのなら、あのまま次の間に連れ込めば良かった。
最もそこから先を務めるのは他の者にはなるが。
癒しが欲しかったなら、膝枕の一つも頼めばいい。
情報が目的なら、紫苑を指名するはず。
なのに――何もせずに、見て、帰っていった。
あの男は、この場所に“何を求めて来た”のだろう?
帯の結び目に指を滑らせながら、考える。
(……いや、違う)
扇を置き、帯を解く。
細い指先が、自らの胸元にふれ、喉元にかかる玉の汗をなぞる。
香と熱と、獣の本能を誘うために整えたこの身体に、彼は一瞥すらよこさなかった。
まるで、最初から――“触れるつもりがない”と決めていたような。
(もしあれが、ただの人間なら……あんな目は、しない)
不意に、記憶がよぎる。
──父の声。
“共に生きる世界があると信じろ。人も、獣も、等しく”
──母の涙。
“信じたから、あなたがいるのよ”
「……信じるわけ、ないじゃないか」
独り言のように呟きながら、帯を緩め、衣を落とす。
薄紅に染まった瞳が、ふと鏡の向こうに映った自分と合う。
その瞳が、どこか――さみしげに笑っていた。
浴衣を肩かけ直し、白粉を軽く拭い、千朶が廊下へ出ると、そこには一人の男が寄りかかっていた。
「……あれ、部屋に戻ったんじゃなかったの」
男――藍月(らんげつ)は、軽く目元を撫でながら振り向く。
春ノ屋において千朶と双璧と呼ばれた芸妓の一人。
藍地の単衣を身にまとい、髪はうなじで緩く束ねられている。
琥珀色の瞳と、月の光に透けるような白茶の髪。
胡弓のように色香のある目元に、狐めいた睨みを宿した青年だった。
千朶のような“魔性”ではなく、“妖艶と気怜”を武器に男たちを手玉に取る、柔と鋭を併せ持つ存在。
藍月は、千朶が春ノ屋で“唯一、気を許せる相手”だった。
慰め合うことも、手を貸し合うこともない。けれど、この男の前では、言葉の端に力を入れなくてもよかった。
春ノ屋で生きるということの、重さも、虚しさも、互いに知っている――それだけで、十分だった。
「気になってたんだよ、お前。あんな“真っ黒な軍服”が客だなんて、珍しいじゃないか」
「ふふ。見てのとおり、ぼくには不発だったみたい」
千朶がからかうように微笑めば、藍月は「やれやれ」と言わんばかりにため息をつく。
「お前がそう言うってことは、よほど妙な男だったんだな」
千朶は答えず、ふいに廊下の障子に寄りかかった。
藤の模様が、衣の肩に影を落とす。
「ねえ、藍月。……ここってさ、檻なのかな」
問いかけに、藍月の目がほんの少しだけ細められる。
「千朶、お前、また変な夢でも見たか」
「ちがうよ。ただ――思っただけ」
ほんの少しだけ本音をこぼしたその瞬間、足音もなく現れた人物があった。
「夢を見られるうちは、檻じゃないさ」
艶のある声だった。
現れたのは、楼主――紫苑(しおん)。
夜会用の紗を羽織り、淡い香の風を纏って歩く姿は、誰よりも“娼館の主”としての品と威厳を感じさせる。
「紫苑さん……」
「何を怖がっている。お前は春ノ屋の“看板”だ。ここにいる者たちの希望であり、象徴であり――」
言葉を切って、紫苑は優しく微笑んだ。
「……ただの、ひとりの子供でもある。無理に笑わなくていい。ここでは、自分を守ることが許されている」
その言葉に、千朶の胸が少しだけ、じんわりと温かくなる。
――春ノ屋は、買われる場所ではない。
この場所だけは、“選び取る”ことが許されている。
父を失い、母をなくし、名を奪われたこの身であっても――
ここにいる限り、自分は「物」ではないのだと、初めて思えた場所だった。
だから、こそ。
あの男のことが、引っかかって仕方がない。
「……ねえ、紫苑さん。あの人、また来ると思う?」
千朶が問えば、紫苑はふと目を細めた。
「来るだろうな。あの眼は、“未だ満たされぬ者”の眼だった。……千朶、お前、気をつけなさい」
「なにを?」
「お前が“惚れさせる”のは、簡単だ。でも、惚れてしまったら――おしまいだ」
紫苑はそう言って、静かに去っていった。
藍月は言葉もなく、千朶の肩を一度だけぽんと叩いて、そのあとを追っていく。
取り残された廊下に、わずかな沈黙と、香の余韻だけが残った。
千朶は、指先で帯の結び目をゆるく撫でながら、ぽつりと呟く。
「……だったら、どうすればいいのかな」
千朶の小さな呟きは、夜の闇にそっと吸われた。
二日後の夜――
葦原は、再び春ノ屋を訪れた。