――再び現れた葦原は、前回と同じ黒のシャツに軍帽すら携えず、ほとんど客のような風体ではなかった。
それでも、控えの間に姿を見せた瞬間、春ノ屋の空気は少しだけ、きしんだ。
千朶の香を受けつけなかった男。
誰の視線にも反応せず、ただ“見て帰った”だけの男。
「また、いらしてくれたのですね」
今宵、千朶はわざと前回よりも淡い色の着物を選んだ。
白と薄藤の間のような、ひと刷毛の影が落ちたような色。
髪もきつく結わず、やや緩めの紐で肩にかかるよう流している。
春の匂いよりも、少しだけ秋の余韻を纏うような装いだった。
「……君は、そのたびに装いを変えるのか?」
座敷に通されてすぐ、葦原はそう問いかけた。
視線は着物の裾にも髪にも触れず、ただ淡々と、言葉だけが置かれる。
「ええ。見られることが、わたしの仕事ですから」
千朶は笑って扇を開いた。
だがその微笑は、どこか試すような色を含んでいた。
(本当に、この男は“見ない”)
先ほどの問いも、誉めるでも、探るでもない。ただ、“確認”だった。
自分が何を身にまとっても、どんな声で誘っても、この男は――“欲”の気配を見せない。
「今日は、舞でもご所望ですか?」
問うた声に、葦原は首を横に振った。
「君の言葉を、もう少し聞いてみたい」
その返答に、千朶は少しだけ目を細める。
――なるほど。
彼の欲は、肉体ではない。
その眼は、口元よりも先に“嘘”を見る眼だ。
人を惚れさせるでもなく、支配しようとするでもない。ただ、じっと心の奥を測っている。
「……少佐殿はおもしろいことを仰いますね」
千朶は酒を注ぎながら、わずかに身を寄せた。
その動作は、まるで風が扇を撫でるように滑らかで、柔らかい。
「こんな場所で、嘘以外の言葉が聞けると思って?」
「君が嘘をつくのなら、嘘のなかの“本当”を見るだけだ」
そのやり取りだけで、どちらも――“仕掛けている”ことが明白だった。
「ふふ、危ない人ですね。……ほんとうに軍人さんですか?」
「軍人ではないと言ったはずだ。今の私は、ただの“客”だよ」
杯を受け取る手が、前よりもわずかに近い。
だが、それでも指は触れない。体温も、匂いも――決して交わらない。
葦原は、千朶の本質に気づいている。
千朶も、彼の“深い裂け目”に気づいている。
けれど、どちらもそこに触れない。
触れないまま、火をつけ合う。
まるで炎の中に指を伸ばしながら、互いに燃え尽きる寸前で止めているようだった。
「……ほんとうに、何もしないんですね」
千朶が呟いた言葉に、葦原は目を伏せる。
「何かをしたければ、すでにしている」
「していないから、言っているんです」
その言葉に、葦原はわずかに息を吐いた。
「……君は、誘うのが上手いな」
「それが仕事ですから」
少しの沈黙が落ちる。
杯に残った酒の揺らぎが、火の揺れのように見えた。
(ぼく、――この人の反応が、欲しい)
千朶は気づいてしまった。
“惚れさせる”ことに意味はなかった。
“堕とす”ことが目的だったはずなのに。
いま自分は、この男のほんの一瞬の――眼の揺れを、心のざわめきを、“欲して”いる。
それは惚れではない。欲でもない。
ただ、葦原という男の“人間らしさ”を見たいという、奇妙な執着だった。
※
春ノ屋の控えの間。朝まだきの香を焚く前、襖を開けて入ってきた女中が、手にしたものを千朶に差し出した。
「少佐殿のお忘れ物で……」
紫の組紐がわずかにほどけた、それは黒革の手袋だった。軍人が日常で使うものよりもずっと上等な、細かい縫製の一双。
千朶はそれを手に取ると、ひどく穏やかな目で眺めた。
「……へえ。こんなもの、忘れていくんだ」
声に笑みが混じる。
それは獲物を仕留めた快感ではない。もっと――くすぐられるような、心のどこかがくすぐられるような笑みだった。
扇の代わりに、手袋を唇に当ててみる。
「……あの人、今朝、自分の指先が寒いって気づいてるかな」
そう呟いた千朶の目は、どこか愉しげで――それでいて、どこか切なげだった。
その背後から、するりと紗の音が近づいた。
「千朶」
紫苑の声。振り返れば、薄茶の単衣を羽織った楼主が、扇をひとひら開いたまま立っていた。
「その忘れ物、届けに行くのかい?」
「ええ。……許してもらえますか?」
問い返す千朶の声は、いつもの艶を含まない。
素のままの、どこか幼くさえ聞こえる声音だった。
紫苑は微笑むと、少しだけ首を傾けて言った。
「なら、藍月を連れて行きなさい。護衛代わりだ」
「えっ」
返事をしたのは、襖の外にいた藍月だった。
「なんで俺!? 朝っぱらから軍の詰所なんか行きたくないんだけど!」
藍月はすでに装いを整えていた。藍地の羽織に、白銀の根付。
髪はゆるく結われ、すでに通い慣れた遊宴の香が纏われている。
「千朶と出るのは良い。でも軍ってのが……最近、あの辺通ると名前を叫ばれるんだよ? でかい声で。……この前なんか、“組紐、受け取ってくれました?”って!」
「それ、受け取ったの?」
「受け取ってねぇよ!!」
「それは良かった。受け取ったら求愛を受けていたことになる」
「こっわ!」
千朶がくすりと笑う。藍月は頬を引き攣らせて、紫苑に詰め寄った。
「紫苑さん、俺が狙われてるの、知ってて言ってるでしょ! 熊の獣人だよ? 一回挨拶しただけで“一目惚れ”されたとか、ほんと意味わかんないんだけど!寝てもないのにさぁ!」
「仕方ないさ。お前、妙に撫でるのがうまいから」
「それ、褒めてるか!? ていうか、なんで俺! 千朶と誰か女中で行かせれば……」
「藍月」
紫苑の声が静かに落ちた。
「この子がここを出るのは、初めてだ。……護る手が、必要なのさ。女中じゃ務まるまい」
その言葉に、藍月はふっと目を伏せた。
見た目に似合わず、武の心得は深い。
護身の術ひとつとっても、並の軍人には負けない。
千朶はその隣で、そっと視線を落とす。
まるで、自分のことではないように――けれど、確かに届いていた。
そう――この足で楼の外に出るのは、春ノ屋に入って以来、初めてだった。
“惚れ薬の白狐”は、いつも“見られる場所”にいた。
けれど今日、自分から“会いに行く”。
「……わかったよ。行けばいいんだろ」
藍月は憮然としたまま、ふいと顔を背ける。だが、どこか困ったような笑みをこぼしていた。
藍月は、ため息をつきながらも言った。
「……ただし、お前の着物、ちゃんと選べよ。あの外套持っていくなら、あんまり色っぽい格好していくんじゃねえぞ」
「ふふ。わかってるよ。ありがとう、藍月“兄さん”」
千朶は軽く首を傾げ、柔らかく微笑んだ。
その表情に、藍月は何か言いたげに口を開きかけて、やめた。
部屋に戻り、襖を閉める。
静かな鏡台の前に座り、千朶はしばし自分と向き合った。
白粉は塗らず、紅も指さない。
帯は浅葱。着物は、淡い菫色を選んだ。
それは、春ノ屋の“白狐”としての装いではなく、ただの一人の青年としての衣だった。
人を惑わすためではない。
視線を奪う艶やかさではなく、ただ静かな、品と余白のある清らかさ。
それでいて、見た者の胸にふと余韻を残すような――。
今日、この姿で彼に会いたいと思った。
この手で、あの人の外套を返したいと願った。
それだけのために。
千朶は扇を置き、立ち上がる。
いつもの自分ではない。
春ノ屋の象徴でも、惚れ薬の白狐でもない。
今日はただ、“千朶”として――檻を出る。