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第三章『触れずに燃ゆるもの』

 ――再び現れた葦原は、前回と同じ黒のシャツに軍帽すら携えず、ほとんど客のような風体ではなかった。

 それでも、控えの間に姿を見せた瞬間、春ノ屋の空気は少しだけ、きしんだ。


 千朶の香を受けつけなかった男。

 誰の視線にも反応せず、ただ“見て帰った”だけの男。


 「また、いらしてくれたのですね」


 今宵、千朶はわざと前回よりも淡い色の着物を選んだ。

 白と薄藤の間のような、ひと刷毛の影が落ちたような色。


 髪もきつく結わず、やや緩めの紐で肩にかかるよう流している。

 春の匂いよりも、少しだけ秋の余韻を纏うような装いだった。


「……君は、そのたびに装いを変えるのか?」


 座敷に通されてすぐ、葦原はそう問いかけた。

 視線は着物の裾にも髪にも触れず、ただ淡々と、言葉だけが置かれる。


「ええ。見られることが、わたしの仕事ですから」


 千朶は笑って扇を開いた。

 だがその微笑は、どこか試すような色を含んでいた。


(本当に、この男は“見ない”)


 先ほどの問いも、誉めるでも、探るでもない。ただ、“確認”だった。

 自分が何を身にまとっても、どんな声で誘っても、この男は――“欲”の気配を見せない。


「今日は、舞でもご所望ですか?」


 問うた声に、葦原は首を横に振った。


「君の言葉を、もう少し聞いてみたい」


 その返答に、千朶は少しだけ目を細める。


 ――なるほど。


 彼の欲は、肉体ではない。

 その眼は、口元よりも先に“嘘”を見る眼だ。

 人を惚れさせるでもなく、支配しようとするでもない。ただ、じっと心の奥を測っている。


「……少佐殿はおもしろいことを仰いますね」


 千朶は酒を注ぎながら、わずかに身を寄せた。

 その動作は、まるで風が扇を撫でるように滑らかで、柔らかい。


 「こんな場所で、嘘以外の言葉が聞けると思って?」

 「君が嘘をつくのなら、嘘のなかの“本当”を見るだけだ」


 そのやり取りだけで、どちらも――“仕掛けている”ことが明白だった。


 「ふふ、危ない人ですね。……ほんとうに軍人さんですか?」

 「軍人ではないと言ったはずだ。今の私は、ただの“客”だよ」


 杯を受け取る手が、前よりもわずかに近い。

 だが、それでも指は触れない。体温も、匂いも――決して交わらない。


 葦原は、千朶の本質に気づいている。

 千朶も、彼の“深い裂け目”に気づいている。


 けれど、どちらもそこに触れない。


 触れないまま、火をつけ合う。

 まるで炎の中に指を伸ばしながら、互いに燃え尽きる寸前で止めているようだった。


「……ほんとうに、何もしないんですね」


 千朶が呟いた言葉に、葦原は目を伏せる。


「何かをしたければ、すでにしている」

「していないから、言っているんです」


 その言葉に、葦原はわずかに息を吐いた。


「……君は、誘うのが上手いな」

「それが仕事ですから」


 少しの沈黙が落ちる。

 杯に残った酒の揺らぎが、火の揺れのように見えた。


(ぼく、――この人の反応が、欲しい)


 千朶は気づいてしまった。


 “惚れさせる”ことに意味はなかった。

 “堕とす”ことが目的だったはずなのに。


 いま自分は、この男のほんの一瞬の――眼の揺れを、心のざわめきを、“欲して”いる。


 それは惚れではない。欲でもない。

 ただ、葦原という男の“人間らしさ”を見たいという、奇妙な執着だった。


 ※


 春ノ屋の控えの間。朝まだきの香を焚く前、襖を開けて入ってきた女中が、手にしたものを千朶に差し出した。


「少佐殿のお忘れ物で……」


 紫の組紐がわずかにほどけた、それは黒革の手袋だった。軍人が日常で使うものよりもずっと上等な、細かい縫製の一双。


 千朶はそれを手に取ると、ひどく穏やかな目で眺めた。


「……へえ。こんなもの、忘れていくんだ」


 声に笑みが混じる。


 それは獲物を仕留めた快感ではない。もっと――くすぐられるような、心のどこかがくすぐられるような笑みだった。

 扇の代わりに、手袋を唇に当ててみる。


「……あの人、今朝、自分の指先が寒いって気づいてるかな」


 そう呟いた千朶の目は、どこか愉しげで――それでいて、どこか切なげだった。


 その背後から、するりと紗の音が近づいた。


「千朶」


 紫苑の声。振り返れば、薄茶の単衣を羽織った楼主が、扇をひとひら開いたまま立っていた。


「その忘れ物、届けに行くのかい?」

「ええ。……許してもらえますか?」


 問い返す千朶の声は、いつもの艶を含まない。

 素のままの、どこか幼くさえ聞こえる声音だった。


 紫苑は微笑むと、少しだけ首を傾けて言った。


「なら、藍月を連れて行きなさい。護衛代わりだ」

「えっ」


 返事をしたのは、襖の外にいた藍月だった。


「なんで俺!? 朝っぱらから軍の詰所なんか行きたくないんだけど!」


 藍月はすでに装いを整えていた。藍地の羽織に、白銀の根付。

 髪はゆるく結われ、すでに通い慣れた遊宴の香が纏われている。


「千朶と出るのは良い。でも軍ってのが……最近、あの辺通ると名前を叫ばれるんだよ? でかい声で。……この前なんか、“組紐、受け取ってくれました?”って!」

「それ、受け取ったの?」

「受け取ってねぇよ!!」

「それは良かった。受け取ったら求愛を受けていたことになる」

「こっわ!」


 千朶がくすりと笑う。藍月は頬を引き攣らせて、紫苑に詰め寄った。


「紫苑さん、俺が狙われてるの、知ってて言ってるでしょ! 熊の獣人だよ? 一回挨拶しただけで“一目惚れ”されたとか、ほんと意味わかんないんだけど!寝てもないのにさぁ!」

「仕方ないさ。お前、妙に撫でるのがうまいから」

「それ、褒めてるか!? ていうか、なんで俺! 千朶と誰か女中で行かせれば……」

「藍月」


 紫苑の声が静かに落ちた。


「この子がここを出るのは、初めてだ。……護る手が、必要なのさ。女中じゃ務まるまい」


 その言葉に、藍月はふっと目を伏せた。

 見た目に似合わず、武の心得は深い。

 護身の術ひとつとっても、並の軍人には負けない。


 千朶はその隣で、そっと視線を落とす。

 まるで、自分のことではないように――けれど、確かに届いていた。

 そう――この足で楼の外に出るのは、春ノ屋に入って以来、初めてだった。


 “惚れ薬の白狐”は、いつも“見られる場所”にいた。

 けれど今日、自分から“会いに行く”。


「……わかったよ。行けばいいんだろ」


 藍月は憮然としたまま、ふいと顔を背ける。だが、どこか困ったような笑みをこぼしていた。


 藍月は、ため息をつきながらも言った。


「……ただし、お前の着物、ちゃんと選べよ。あの外套持っていくなら、あんまり色っぽい格好していくんじゃねえぞ」

「ふふ。わかってるよ。ありがとう、藍月“兄さん”」


 千朶は軽く首を傾げ、柔らかく微笑んだ。

 その表情に、藍月は何か言いたげに口を開きかけて、やめた。


 部屋に戻り、襖を閉める。

 静かな鏡台の前に座り、千朶はしばし自分と向き合った。


 白粉は塗らず、紅も指さない。

 帯は浅葱。着物は、淡い菫色を選んだ。


 それは、春ノ屋の“白狐”としての装いではなく、ただの一人の青年としての衣だった。


 人を惑わすためではない。

 視線を奪う艶やかさではなく、ただ静かな、品と余白のある清らかさ。

 それでいて、見た者の胸にふと余韻を残すような――。


 今日、この姿で彼に会いたいと思った。

 この手で、あの人の外套を返したいと願った。

 それだけのために。


 千朶は扇を置き、立ち上がる。


 いつもの自分ではない。

 春ノ屋の象徴でも、惚れ薬の白狐でもない。


 今日はただ、“千朶”として――檻を出る。


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