春ノ屋から人力車で街道を抜け、帝国軍の詰所がある地区――霞ヶ関周辺に差しかかった頃だった。
「……軍とか、もう本当に……」
藍月が、車窓の隙間から顔をしかめる。
「千朶、見えてきた、あの建物。あの角曲がったところ、あいついるんだよ。たぶん今日も」
「あいつ、ってあの?」
千朶が問えば、藍月はうんざりした顔でため息をついた。
「そう。熊。帝国陸軍の獣人。でかい、ごつい、眼光鋭い。なのに俺に組紐と一緒に花まで持ってきた、超・実直系ストーカーだ」
千朶はくす、と笑った。
「それって、けっこういい男なんじゃないの?」
「よくねえよ。一回撫でただけで“ふさわしい相手だ”とか言われてみろ。背筋凍るわ」
「ふふ……でも、撫でられたら惚れるくらい、藍月が優しかったんでしょ」
「千朶、お前のそういうとこ、嫌いだわ」
千朶が笑って視線を逸らした、その時だった。
――ガツッ!
突然、車の横から音がした。何かがぶつかったらしい。
「なんだ……?」
人力車が止まる前に、藍月の顔が青ざめる。
「あ、やば。あれたぶん、来た……」
車の外、軍服の列の中――その影がひときわ大きい。金茶色の毛並みに覆われた輪郭、鋼のような胸板、そして。
「……藍月……さん」
熊獣人の男――眞鍋琥珀(まなべこはく)は、申し訳なさそうに、しかし目を輝かせて近づいてきた。
肩幅は人間の二倍、獣耳を揺らしながら、ゆっくりと軍靴の音を響かせる。
軍服が軋む音が聞こえるほどの巨体だった。
「また……お会いできて、嬉しいです」
「……おお……お前……また組紐とか持ってきたら……」
「今日は……持ってません」
胸を張る琥珀の耳が、ちょっとしおれた。
「……でも、今日のあなたも……とても綺麗です」
それだけ言って、じっと見つめたまま動かない。
焦がれるような眼差し。けれど、押しつけるようなものではなかった。
どこか不器用なほど、まっすぐな好意。
千朶が隣で、ほわ、と小さく息を漏らした。
「……ほんとに、“一目惚れ”されたんだね」
「だからそう言っただろ!? なんなんだよこの熊!」
藍月が顔を赤くして顔を背ける。
けれど、千朶には気づいていた。
藍月の手が、ほんのわずかに震えていたことを。
――怒っているわけじゃない。
――怯えているわけでもない。
ただ、どう受け取っていいのか、わからないだけ。
「帰りたい」
藍月が、小さくつぶやいた。
「藍月」
千朶が笑いをこらえながら袖を引き、人力車を降りると、門兵に葦原宛の届け物を伝える。
しばしのやり取りの後、二人は案内され、応接室の前に立った。
「葦原少佐殿。お客人がお見えです」
軍務の合間だったのか、扉の向こうからすぐに返答があった。
「通せ」
低く、よく響く声。
扉が開き、千朶は静かに歩を進めた。
中は簡素な応接室だった。
机に軍地図が広げられ、壁際には書棚、そして葦原が椅子に腰かけていた。
(……なるほど。これが“戦場の顔”)
春ノ屋で見た葦原よりも、さらに表情が硬い。
だが、千朶の姿を認めた瞬間――目の奥に、かすかな波が走った。
「……まさかおまえが、来るとは思わなかった」
葦原がゆっくりと立ち上がる。
「昨夜、忘れ物をされたでしょう? 届けるついででに少佐殿にご挨拶を、と思いまして」
外套を差し出す指先が、葦原の手に触れる。
今日は、誰かを惑わせるための装いではない。
“春ノ屋の白狐”ではなく、ただ一人の青年として――
あなたに会いに来たという証を、まとった姿だった。
一瞬の温度に、どちらも言葉を止めた。
「……他の者に、持たせれば済む話だ」
「ええ。でも、ぼくが持ってきた方が、きっと面白い」
くす、と笑った千朶に、葦原の瞳が細くなる。
観察者のそれではない。
ほんのわずかに、熱を孕んだ眼。
「千朶。おまえは、なぜ……そうやって、人の心を読もうとする?」
「そんなもの、読んでませんよ。ただ、見たいだけです」
「何を」
「……あなたが、どこまでぼくに“堕ちない”のか」
刹那、二人の間の空気がぴんと張り詰めた。
この部屋には、軍も楼も関係ない。
ただ、男と男。人と、白狐。
引かれ合うものと、抗うもの。
葦原が息を呑み、ふと、千朶の指を掴んだ。
その瞬間――
「……なにしてんだ、あんたら。俺がいるのを忘れてねぇか」
背後から呆れた声を飛ばしたのは、藍月だった。
やや顔を赤くしながら、部屋の隅で腕を組んでいる。
「そろそろ戻るぞ。紫苑さんに余計な心配させたら、俺が叱られる。少佐殿も程々に」
「……ふふ。そうですね」
手を離し、千朶は一歩引いた。
外套を手にした葦原が、何か言いかけたが、言葉にしなかった。
千朶は振り返り、扉の前で一度だけ微笑んだ。
「では、また“忘れ物”でもなさってくださいね。葦原少佐殿」
その笑みを背に、扉が静かに閉まる。
――千朶の香だけが、部屋に残った。
乾いた空気の中に、仄かに残る梅の香。
それは扉が閉じたあともなお、葦原の喉奥を焼くようだった。
手にした外套の端を無意識に握りしめる。
その布には、確かにあの白い指が触れていた。
理性では、千朶に手を伸ばしてはならないと知っている。まだ今は。
けれど――
「とっくに墜ちてる……千朶。早く、俺を──……」
名を呼んだ声は、誰にも届かないまま、応接室に落ちて消えた。