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第四章『白狐、檻を出る』

 春ノ屋から人力車で街道を抜け、帝国軍の詰所がある地区――霞ヶ関周辺に差しかかった頃だった。




「……軍とか、もう本当に……」




 藍月が、車窓の隙間から顔をしかめる。




「千朶、見えてきた、あの建物。あの角曲がったところ、あいついるんだよ。たぶん今日も」


「あいつ、ってあの?」




 千朶が問えば、藍月はうんざりした顔でため息をついた。




「そう。熊。帝国陸軍の獣人。でかい、ごつい、眼光鋭い。なのに俺に組紐と一緒に花まで持ってきた、超・実直系ストーカーだ」




 千朶はくす、と笑った。




「それって、けっこういい男なんじゃないの?」


「よくねえよ。一回撫でただけで“ふさわしい相手だ”とか言われてみろ。背筋凍るわ」


「ふふ……でも、撫でられたら惚れるくらい、藍月が優しかったんでしょ」


「千朶、お前のそういうとこ、嫌いだわ」




 千朶が笑って視線を逸らした、その時だった。




 ――ガツッ!




 突然、車の横から音がした。何かがぶつかったらしい。




「なんだ……?」




 人力車が止まる前に、藍月の顔が青ざめる。




「あ、やば。あれたぶん、来た……」




 車の外、軍服の列の中――その影がひときわ大きい。金茶色の毛並みに覆われた輪郭、鋼のような胸板、そして。




「……藍月……さん」




 熊獣人の男――眞鍋琥珀(まなべこはく)は、申し訳なさそうに、しかし目を輝かせて近づいてきた。




 肩幅は人間の二倍、獣耳を揺らしながら、ゆっくりと軍靴の音を響かせる。


 軍服が軋む音が聞こえるほどの巨体だった。




「また……お会いできて、嬉しいです」


「……おお……お前……また組紐とか持ってきたら……」


「今日は……持ってません」




 胸を張る琥珀の耳が、ちょっとしおれた。




「……でも、今日のあなたも……とても綺麗です」




 それだけ言って、じっと見つめたまま動かない。


 焦がれるような眼差し。けれど、押しつけるようなものではなかった。


 どこか不器用なほど、まっすぐな好意。




 千朶が隣で、ほわ、と小さく息を漏らした。




「……ほんとに、“一目惚れ”されたんだね」


「だからそう言っただろ!? なんなんだよこの熊!」




 藍月が顔を赤くして顔を背ける。


 けれど、千朶には気づいていた。




 藍月の手が、ほんのわずかに震えていたことを。




 ――怒っているわけじゃない。


 ――怯えているわけでもない。




 ただ、どう受け取っていいのか、わからないだけ。




「帰りたい」




 藍月が、小さくつぶやいた。




「藍月」




 千朶が笑いをこらえながら袖を引き、人力車を降りると、門兵に葦原宛の届け物を伝える。


 しばしのやり取りの後、二人は案内され、応接室の前に立った。




「葦原少佐殿。お客人がお見えです」




 軍務の合間だったのか、扉の向こうからすぐに返答があった。




「通せ」




 低く、よく響く声。


 扉が開き、千朶は静かに歩を進めた。




 中は簡素な応接室だった。


 机に軍地図が広げられ、壁際には書棚、そして葦原が椅子に腰かけていた。




 (……なるほど。これが“戦場の顔”)




 春ノ屋で見た葦原よりも、さらに表情が硬い。


 だが、千朶の姿を認めた瞬間――目の奥に、かすかな波が走った。




「……まさかおまえが、来るとは思わなかった」




 葦原がゆっくりと立ち上がる。




「昨夜、忘れ物をされたでしょう? 届けるついででに少佐殿にご挨拶を、と思いまして」




 外套を差し出す指先が、葦原の手に触れる。




 今日は、誰かを惑わせるための装いではない。


 “春ノ屋の白狐”ではなく、ただ一人の青年として――


 あなたに会いに来たという証を、まとった姿だった。




 一瞬の温度に、どちらも言葉を止めた。




「……他の者に、持たせれば済む話だ」


「ええ。でも、ぼくが持ってきた方が、きっと面白い」




 くす、と笑った千朶に、葦原の瞳が細くなる。




 観察者のそれではない。


 ほんのわずかに、熱を孕んだ眼。




「千朶。おまえは、なぜ……そうやって、人の心を読もうとする?」


「そんなもの、読んでませんよ。ただ、見たいだけです」


「何を」


「……あなたが、どこまでぼくに“堕ちない”のか」




 刹那、二人の間の空気がぴんと張り詰めた。


 この部屋には、軍も楼も関係ない。


 ただ、男と男。人と、白狐。


 引かれ合うものと、抗うもの。


 葦原が息を呑み、ふと、千朶の指を掴んだ。




 その瞬間――




「……なにしてんだ、あんたら。俺がいるのを忘れてねぇか」




 背後から呆れた声を飛ばしたのは、藍月だった。


 やや顔を赤くしながら、部屋の隅で腕を組んでいる。




「そろそろ戻るぞ。紫苑さんに余計な心配させたら、俺が叱られる。少佐殿も程々に」




「……ふふ。そうですね」




 手を離し、千朶は一歩引いた。


 外套を手にした葦原が、何か言いかけたが、言葉にしなかった。


 千朶は振り返り、扉の前で一度だけ微笑んだ。




「では、また“忘れ物”でもなさってくださいね。葦原少佐殿」




 その笑みを背に、扉が静かに閉まる。




 ――千朶の香だけが、部屋に残った。




 乾いた空気の中に、仄かに残る梅の香。


 それは扉が閉じたあともなお、葦原の喉奥を焼くようだった。




 手にした外套の端を無意識に握りしめる。


 その布には、確かにあの白い指が触れていた。




 理性では、千朶に手を伸ばしてはならないと知っている。まだ今は。


 けれど――




「とっくに墜ちてる……千朶。早く、俺を──……」




 名を呼んだ声は、誰にも届かないまま、応接室に落ちて消えた。


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