司がスマホのメッセージを送り終えたとき、視線の先では美月が悠のドレスについたワインのシミを丁寧に拭っていた。拓海が隣でティッシュの箱を差し出している。
「このドレス、もう無理ね。誰か新しいの持ってきてくれない?」
悠が手をひらひらと振って愚痴る。
「あーあ、あんたが止めなかったら、誠司のこと、もっとボロクソに言ってやったのに! あ、さっき私、婚約破棄のこと言っちゃったけど……美月、怒ってない?」
「怒ってないよ」
美月は軽く首を振り、そのまま司の方を向く。「レックス……どうして、ここに?」
彼女はよく知っている。九条家の招待状がどれほどの価値を持つかを。
窓辺に立つ司は、仕立ての良いスーツを纏いながらも、その表情にはまだわずかに怒気が残っていた。しかしその声音は抑えられ、静かだった。
「パーティーに出席するためだ」
拓海が疑いの眼差しを向けるが、司と目が合うと、何も言わずに視線を逸らした。
「二人って……知り合いなの?」悠が興味津々に聞く。
「まぁ……友人、ってことで」拓海が曖昧に答える。
悠は司をじろじろ見てから、驚いたように叫んだ。「ちょっと、美月! こんなイケメンまで連れてきて、まさかホストでも呼んだの?」
室内の空気が一瞬にして凍りつく。
司の冷たい表情がわずかに揺らぐ――まさか、前に星見クラブでホストと勘違いされたか?
かろうじて表情を保った司が、低く答える。「……違う」
「誰がホストだって?」拓海がむせそうになりながら笑う。「司がホストだったら、東京中のホストが泣いて逃げ出すっての!」
その瞬間、美月と悠は凍りついたように視線を交わす。
美月の視線が司へと向けられ、驚きが言葉になる前に口を開く。「あなたが……九条司?」
司は本当はここで正体を明かすつもりはなかったが、仕方なくうなずいた。「ああ、そうだ」
美月の脳内に雷が落ちた。
――この人、私、つい最近まで『マダムに嫌われるホスト』って思ってた……!
全力で動揺を隠しながらも、顔の火照りは隠せない。
「な、なんで松風荘の六万円の部屋なんかに住んでたの……?」
「九条グループが開発した物件だ。実際に住んで、利用者視点で確認したかった」
完璧な回答。しかし、美月の脳裏に浮かぶのは、数日前に差し入れたおでんと、夜中のブレーカー騒ぎ――その度に呼び出していたことだ。顔がだんだん熱くなった。
「……そ、それで、松風荘の電気、どうなったの?」
司が少し咳払いして答える。「明日、管理会社を変える」
「………………」
そのとき、悠が「着替えてくる」と言いながら拓海を強引に連れ出し、廊下に出るなり睨みつけた。
「なんで九条司だって教えてくれなかったのよ!」
「まさか、あそこまで気づかないとは……」
拓海が困ったように笑うと、視線を休憩室へ向けた。「それより、美月を置いてきて大丈夫か?」
「私の方が限界だったの!」
悠はため息をつきながら言った。「でもさ、彼がわざわざ隣に引っ越してきたってことは……美月のこと、気になってるんじゃ?」
拓海は一瞬黙り、階下に視線を向ける。「……いや、違う。彼にはもう、想い人がいるんだ」
その頃、パーティー会場では誠司が、周囲の視線とささやきに晒され、苦虫を噛み潰したような顔で立っていた。面目を失ったうえに、商談まで台無しに。
「誠司、私は……私だって美月が急に殴るなんて思ってなかったし、テーブルクロスを引っ張ったのもあの子だし、従姉妹に見つかったからって私に八つ当たりして……私が来なければ、こんなことにはならなかったのに……」
清夏が涙を滲ませながら袖を握る。
「君のせいじゃない」
誠司は落ち着きを取り戻し、優しく彼女の手を叩いた。「美月が俺の気を引こうとしてるだけだ」
「でも、今日の件で九条家のパーティーを台無しにしたし、あなたも美月も、とばっちりを受けるかもしれないわ。」清夏がしおらしく言う。
誠司の目が冷たく光る――東京中が美月を自分の婚約者として知っている。何かあれば、霧島家が責任を取らざるを得ない。
「行こう。美月を探して、謝らせる」
二人は二階へ上がり、ちょうど悠が部屋から出てくるのを見かけた。
誠司は当然のように美月が中にいると踏み、扉を乱暴に開けた。
「美月! 頭おかしいんじゃないのか!? 清夏に謝れ! それと、お前の友達にも言っとけ、勝手に婚約破棄とか騒いで……全部お前の差し金か!?」
美月は彼を冷ややかに見て、抑えていた怒りが再びこみ上げる。「……誠司、私たちはもう終わったの。悠が言ったことは、正しい」
「俺は別れるなんて認めてない!」誠司は頑なに言い張る。
「清夏の顔を腫らして……お前、本当に悪いと思わないのか?」
誠司が詰め寄り、清夏が彼の背に隠れる。「私は平気よ。でも……九条家には謝らないと」
「やっぱり清夏はしっかりしてるな」
誠司が優しく彼女の手を叩いた、その時。
「その必要はない」
司が美月の背後から現れ、誠司の前に立ちはだかった。
声は低く、冷たい針のように鋭い。
「彼女が、九条家に謝る理由は一つもない」
誠司は部屋にいる男に見覚えがありながらも、どこで会ったか思い出せず、美月の知り合いの一人だろうと考えていた。しかし、美月を庇うその態度に、怒りが一気に湧き上がる。
「お前、どこの誰だ?」