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第19話 九条司のまなざし

誠司が部屋を後にすると、休憩室には静けさが戻った。


美月は、司が自分を庇ってくれたことを胸の奥でしっかりと受け止めていた。数回しか顔を合わせていない“隣人”に、ここまでしてもらえるとは思っていなかった。温かさと、少しの申し訳なさが入り混じった気持ちが広がっていく。


「さっきは……ありがとう」


小さく漏れた言葉に、司はソファから立ち上がり、美月の手首に残る赤い痕を見下ろした。


「気にするな。ただ、あいつのやり方が気に入らなかっただけだ」


淡々とした口調とは裏腹に、その視線は優しかった。


彼がさらに近づこうとしたそのとき、美月のスマートフォンが鳴り響いた。表示された名前に、彼女の眉がわずかに動く──『叔母 小早川華子』。


一度は通話を切ったが、鳴り止まぬ着信に、ため息交じりで応答ボタンを押した。


「もしもし──」


「美月!あんた、調子に乗ってるんじゃないの?九条家のパーティーで妹に手を出すなんて!」


怒鳴り声が受話器越しに響く。九条家のパーティーで妹の蕾に手を出したことが、既に叔母の耳に入っていたらしい。


美月はすぐに察する。蕾が先に話を盛って伝えたのだろう。本当は、蕾が清夏と一緒に挑発してきたことを説明したかったが、どうせ何を言っても無駄だろう、とすぐに思い直す。叔母はいつも自分の信じたいことしか信じないのだ。


「前に無理やり呼び戻したことを、まだ根にもってるの?蕾がやっと九条家に入れたのに、全部あんたが台無しにして!」


「現場のビデオがもう東京中に広まってるのよ!小早川家の顔に泥を塗って、霧島家にまで迷惑かけて……」


「いい?美月、少しでも恥というものがあるなら、すぐに戻って妹に謝りなさい!それから霧島家にも頭を下げてくるのよ!拗ねるのは勝手だけど、婚約破棄を盾に脅すなんて許さないから!」


罵声が続く。その様子が電話越しでも容易に想像できる。司は少し離れた場所に立っていたが、スピーカーモードでなくても、彼女の辛辣な言葉は十分に聞き取れた。彼の眉間には深い皺が寄り、空気がぴんと張りつめていく。


だが、美月は静かに電話を耳に当てたまま、何も言い返さなかった。


叔母の怒りが頂点に達した頃、携帯に新着の着信通知が表示される。画面に──『霧島美和』の名前が浮かんでいた。美月はふっと息をつき、叔母の話をさえぎる。


「もういい、叔母さん。これだけ怒鳴ったら、喉も渇いただろう。お水でも飲んで、少し落ち着いて。私、これから用事があるので失礼するよ。」


静かに言って、叔母が何か言う前に、美月は電話を切る。そしてすぐに、霧島美和からの着信に出た。


「おばさん」


霧島美和には、ずっと敬意を抱いていた。両親を亡くした後も、彼女は霧島家の中で唯一、美月にやさしく接してくれた。たとえ誠司が自分の子でも、いつも間に立ってくれていた。


「美月……」美和の声はどこか疲れた響きがあった。「誠司が、本当に悪かったと思ってるの……でも、婚約は小さい頃からの約束。今は感情で動くときじゃないのよ」


美月は指先を軽く丸め、聞こえないほどの声で言った。


「おばさん、今夜のことは聞いていると思います。誠司は清夏と堂々と行動を共にして、とてもお似合いでした。だから、二人のことを応援してあげた方がいいと思います。」


「美月、そんな意地悪言わないで……」向こうはため息をついた。


「あなたが傷ついているのは誠司のせいだ。だけど安心して、私が誠司をきちんと叱るから。あの女との関係も、絶対終わらせるように言うから。」


美和の声に、かつての優しさが宿っている。けれど、その優しさに寄りかかって許しを繰り返すのは、もう終わりにしたかった。


霧島家の面子を第一にするのではなく、まず自分の気持ちを心配してくれるとは思っていなかった。これまでも何度も別れ話が出る度に、美和が間に入ると、結局は気持ちが揺らぎ、誠司を許してきたーーーその優しさに甘えて、ずっと我慢してきたのだ。


「こういうことは、一度や二度じゃありません」


美月の声に、これまでにない強さが込められる。


「誠司は、あの女との関係を本気で清算しようとしたことなんて一度もないーー私は、もう疲れました、これ以上耐えたくありません。」


美和の声が震える。


「結婚は遊びじゃないのよ……あなたこそ、霧島家の娘だと信じてるのに!」


「……もう一度だけ、彼にチャンスを与えてくれない? 私のために」


その言葉に、美月は黙って顔を上げた。視線の先、窓辺に立つ司と目が合う。彼は窓辺にもたれ、唇にかすかな笑みを浮かべているものの、目の奥は冷たい光が宿っていた。


──今度も、きっと君は折れる。


そんな声が聞こえた気がした。


なぜだか、心の奥から強い反発心が湧き上がった。このまま譲歩してばかりでは、ずっと他人に見下され続けるだけだと分かった。美月は深く息を吸い込み、はっきりと答える。


「今回は、本気です」


「美月!? ……本当に、婚約を破棄するつもりなの?」


その声がどんどん切羽詰まっていく中、突然「きゃっ」という声と、何かが倒れる音が電話越しに聞こえた。次の瞬間、電話の向こうは騒然となった。


「お母さん!? 医者を呼んで!」


霧島家の叫び声が混線し、美月の手が震える。


「おばさん!? 大丈夫ですか?」


応答はなく、ただ騒然とした音だけが残った。


「どうした!」美月はスマホを強く握りしめ、指が白くなる。


すぐに司が駆け寄り、美月の肩を支える。


「おばさん……心臓が弱いんです。急いで行かないと!」


美月の声はわずかに震えていた。立ち上がろうとしたそのとき、九条司が腕を掴んだ。


「俺が送る」


「大丈夫、自分で──」


「ここじゃタクシーも捕まらない。俺の運転手なら、すぐに動ける」


有無を言わせぬ口調に、美月は頷いた。


二人は裏手の非常階段を降り、黒いベントレーへと向かう。


司が助手席のドアを開け、「乗って」と一言。


美月は迷わず乗り込んだ。その瞬間、邸宅から秘書の高橋が駆け寄ってくる。


「九条様! お呼びで──す」


その言葉が終わるより早く、ベントレーは音もなく門を抜け、夜の闇へと走り去った。


残されたのは舞い上がる砂埃と、高橋の静かな溜め息だけだった。

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