山道を下る車内、司のスマホが震えた。
「霧島美和さんが緊急搬送されました。現在、霧島家には誰もいません」
高橋の報告に、司は即座にハンドルを切る。
助手席で美月は拳を握りしめ、指先が白くなるほど強く力を込めていた。
「緊急搬送」──その言葉が、胸の奥にずしりと響く。
美和の心臓病のことは知っていた。でもまさか、ここまで急を要するとは。美月の全身は弦のように張り詰め、前のめりになって助手席のダッシュボードに顔が近づく。
司はそんな彼女の横顔を一瞥し、車内に静かに流れるピアノの旋律を少しだけ上げた。
「大丈夫だ。きっと無事だ」
その低く、静かな声に、美月の張りつめた心が少しだけ緩んだ。杉の香りと彼の声が混じり合い、不思議と落ち着きを取り戻す。昨夜、階段の踊り場でこの男が同じように落ち着かせてくれたことをふと思い出す。
しばし沈黙の時間が流れた後、司がぽつりと口を開く。
「美和さんは、君にとって特別な人だったんだな」
「ええ」
頷いた美月の瞳には、微かに滲む温かい記憶が宿っていた。
重い空気を和らげようと、美月は自分から過去の話を始めた。
「小さい頃、叔母は私に従兄の古着ばかり着せてたんだ。でもおばさんはそれを知ると、会うたびに新しいワンピースを選んでくれて、叔母にもしっかり文句を言ってくれた。」
「両親が亡くなったあと、唯一家族のように接してくれた人。高校の三者面談も、叔父一家の代わりに、ずっと私の傍にいてくれた」
「私が病気で入院したときも、徹夜で看病してくれて……」
「たぶん、お嫁としてじゃなくて、本当に娘のように思ってくれたんだと思う。」
「だから、あの人を裏切りたくなかった。でも……」
語尾が沈み、指先でスカートの裾を無意識にもてあそぶ。「九条さん、私、わがままだったんだろうか?」
みんなの期待通りに誠司と結婚していれば、こんなことにはならなかったのかもしれない――
司は片手でティッシュを差し出しながら、はっきりと答える。
「違うよ。誰かに尽くしてもらったからって、その人の希望通りに生きなきゃいけない義務なんてない」
「君を愛していない家に、無理に送り込もうとするような相手が、本当に君の幸せを願ってると思うか?」
その言葉に、美月の胸の中にあった重い霧が、少しずつ晴れていく。深く息を吸い、流れる街の灯を見つめる目が次第に強さを帯びていく。
そして車は病院前に到着する。
美月は飛び出すように車を降り、救急入り口へと駆けていく。秋の冷たい風が頬を刺す。
その背に、司は自らのジャケットを脱いでそっと肩に掛けた。その温もりと共に、杉の香りが彼女を包み込む。
「ありがとう」
振り返った彼女の姿は、ジャケットに包まれ、どこか頼りなげに見えた。
「八階の救急室だ。高橋に確認させた」
二人はエレベーターに乗り込み、無言のまま上階へ向かう。
ドアが開くと同時に、目の前に立つ霧島真美子と霧島正義の姿が目に入る。
「おばさんは──?」
駆け寄る美月を、真美子が振り返り、美月の顔を確認すると、その目に憤りが燃え上がったーー
パシンッ!
美月の頬を打った平手の音が、廊下に響き渡る。司がすかさず彼女の肩を支える。
「今夜の騒ぎ、もう東京中に知れ渡ってるのよ!母はあなたにどれだけ良くしてあげたと思ってるの?実の娘よりも大事にしてくれてたのに…」
「よくも来られたわね!」
「お母さんがあんたをどれだけ大事にしてくれたか分かってるの?それなのに、こんな裏切りをして……!あんたのせいで…!全部あんたのせいよ!」
さらに真美子の視線が美月のジャケットに落ちる。
「他の男の上着なんて着て……外で男を作っておいて、兄の浮気を責めるとか、どの口が言うのよ!」
「……九条さんはただの友人。送っていただいただけ」
震える声で言い返す美月に、真美子の怒りは収まらない。
「言い訳なんて聞きたくない!出て行って!」
蹴ろうと足を上げた彼女を、司の鋭い眼光が射抜いた。
たじろぐ真美子の後ろで、ずっと黙っていた霧島正義がゆっくり立ち上がる。彼は娘ほど感情的ではないが、その声には拒絶が滲んでいた。
「美月、美和が目を覚ましたとき、お前がいたら混乱する。もう帰りなさい」
「……いえ。私は、おばさんが目を覚ますまで、ここにいたい」
静かながらも強い意志を乗せて、美月ははっきりと言った。
霧島正義が言葉を探していたその時、司が一歩前へ出る。
「霧島さん、初めまして。九条司です」
その名に、真美子と正義の顔が一気に凍りつく。
「……っ! 九条……」
九条グループの新たな代表、東京にその名を轟かせる男。その彼が、美月の傍にいるーーー。
真美子は言いかけた言葉を飲み込み、顔色がみるみる変わる。正義も思わず態度を変化さし、軽く九条司と握手をかわしながら、声色が一気に和らいだ。「これはこれは、九条様でしたか。ご無礼を。」
司は手を引き、真美子を一瞥して冷たく告げた。
「美月は、霧島美和さんの容態を案じてここに来ただけ。それ以上の侮辱があれば、東京中のメディアに“ご家族の対応”を紹介することになるかもしれないね」
その静かな威圧感に、真美子はすっかり怯えて後ずさった。
ランプのついたままの救急室。
気まずい沈黙が廊下を包み、ただ司の杉の香りだけが、そっと美月の隣で漂っていた。