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第22話 私と結婚して

美和の容体が安定したのを確認してから、美月はようやく病室を後にした。階段の踊り場まで来たところで、清夏に呼び止められる。廊下には誰もおらず、彼女はもはや穏やかな仮面を外し、恨みのこもった目で睨みつけてきた。


「美月、あなたって本当にすごいね。霧島のおばさんを利用して誠司を追い込むなんて。」


美月は眉をひそめ、少し考えてから彼女の言いたいことに気づいた。


「もしかして、私がわざとおばさんを怒らせて倒れさせたって思ってるの?」


「違うの?」と彼女は冷たく笑う。「もしかしたら、あなたとおばさまがグルになって芝居を打って、誠司に無理やり結婚させようとしてるのかもね。」


美月は呆れた様子でため息をついた。


「誤解しないで、結婚をやめたいのは私の方よ。むしろ誠司があなたと結婚してくれた方が、私だってすっきりする。」


清夏は鼻で笑い、「よく言うわね。口では別れるとか言って、本当は誠司に執着してるくせに。今だって、こんな手まで使って注目を集めようとしてるんじゃないの?」


「清夏。」


美月の声は冷たくなった。


「誠司が婚約破棄に応じないのは、霧島家の面子を気にしているから。本当にあなたを愛してると思う?名誉とあなた、どっちを取るか選ばせてみたら?」


その言葉は、清夏の弱みを鋭く突いた。彼女はずっと誠司の影に隠れ、無理を言えば簡単に捨てられることも分かっている。反論できず、積もった苛立ちを美月にぶつける。


「たとえ誠司が私を選ばなくても、あなたみたいな捨てられた女の出番じゃないわ!」


「あなたが誠司に婚約破棄させられるなら、私も考えるけど。たとえ私が身を引いても、彼があなたに籍を入れるとは限らないわ。」


美月はそう言い残し、エレベーターへと向かった。背中に突き刺さるような視線を感じながらも、もう振り返ることはなかった。


おばさんの言葉が、心の奥に棘のように残っていた――

婚約破棄は簡単でも、頼れる人のいない一人きりの身で、どうやって東京で生きていけばいいのか。


病院の前でタクシーを探していると、黒いベントレーが目の前に止まった。窓が下がり、司の顔が現れる。


「乗って。家まで送る。」


美月は遠慮した。


「大丈夫、自分でタクシーを――」


「朝のラッシュはタクシーがつかまりにくい。俺もちょうど松風荘に帰るところだ。」


司の口調は断る余地を与えなかった。


仕方なく助手席に乗り込むと、彼の香水の残り香が微かに漂い、美月は無意識に窓側へ身を寄せた。


司は前を見たまま、ふいに口を開く。


「霧島のおばささんはもう大丈夫?」


「ええ。医者も、数日で退院できると言ってた。」


「霧島家は婚約破棄に応じないし、おばさまを悲しませたくもない。どうするつもりなんだ?」


バックミラー越しに司の横顔を見ると、美月の心はざわついた。


「その時で考えるしかない。」


「困ってる?」


「……ええ。」


信号待ちで車が止まると、司は真剣な表情でこちらを向いた。


「君の悩みを解決する方法が一つある。」


「どんな方法?」


青信号に変わると同時に、彼は短く言った。


「俺と結婚して。」


美月は耳を疑った。目の前の九条家の当主が、どうして突然そんなことを?


呆然と彼の顔を見ると、冗談には見えない真剣な眼差しだった。


「俺と結婚するのが、君にとって一番いい選択だ。」


「な、なんで……?」美月の声は震えていた。


「霧島のおばさんは、君が誠司と結婚しなくても、ちゃんとした相手がいれば安心するはずだろ?」


司は続ける。


「俺と結婚すれば、彼女ももう無理に誠司との結婚を望まないはずだ。」


さらに、彼はきっぱりと言い切った。


「霧島家は君を手放したくないし、婚約破棄した後も誰も君に近づこうとしないだろう。でも俺なら違う。誰も俺から君を奪おうとはしない。俺がいれば、おばさまももう君を追い詰めたりしないはずだ。」


「それに」と、司は唇の端を上げて、「俺の方が誠司より何倍もマシだ。」


美月は言葉を失った。司の提案は、まるで雷のように頭の中を駆け巡った。


彼は東京でも屈指の名家の当主で、多くの令嬢たちが憧れる存在だ。何度か接しただけでも、彼の紳士的な態度や知性、さりげない気遣いに、心を動かされる自分がいることを美月は否定できなかった。


でも、なぜ自分なのか?今まで数えるほどしか会っていないのに、どうしてここまでしてくれるのだろう。


「どうして私なんですか?」


ようやく美月は心の疑問を口にした。


司は軽く笑い、肩の力を抜いた口調で答える。


「俺も三十歳だし、家から結婚を急かされてる。おじいさんの病気の快復祈願にもなるしね。もしうまくいかなかったら、一年後に離婚したっていい。」


「私が聞きたいのは、どうして私なのかってこと。」


司は前を見据えたまま、淡々と答えた。


「特に理由はない。ただ、君が気に入っただけだよ。他にも選択肢はあるし、君にも他の相手がいるかもしれない。でも今の君には、俺が一番いいはずだ。」


車は松風荘の敷地に入ると、司はエンジンを止め、美月に向き直った。


「俺も時間がない。三日だけ考える時間をやる。」


美月がドアを開けると、夜風が襟元に吹き込み、身震いした。振り返って車内の司を見ると、彼の瞳は深く、どこまでも吸い込まれそうだった。


「九条さん、本気なの?」


彼は片眉を上げて、意味ありげに微笑んだ。


「冗談に見えるか?」


ドアを閉め、ベントレーが夜の闇に消えていくのを見送りながら、美月は手のひらに残る冷たさを感じていた。


九条司と結婚する――


その突拍子もない考えが、今、美月の胸の中で静かに膨らみ始めていた。


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