美月は、ほとんど本能のまま松風荘まで戻ってきた。
司の車はマンションから数百メートル離れた交差点で停まり、彼は電話を受けると「会社に戻る」とだけ告げた。
美月が車を降りると、夜風が一層冷たく感じられ、頭がぼんやりしてきた。家のドアを開けて中に入ると、そのままソファに腰を落とした。
司の「俺と結婚して」
という言葉が、呪文のように彼女の脳裏をぐるぐる回る。
――本当に、受け入れていいの?
出会って間もない男性と結婚するなんて、たとえそれが取引だとしても、常識では考えられないことだった。しかし、司の言葉はまるで鍵のように、彼女が抱えていた問題の扉を的確に開けてしまった。
彼は家族からの結婚のプレッシャーをかわすために、美月は霧島家からのしつこい干渉を断つために、一年後にはお互いに穏やかに離婚できる――。
ソファのクッションを握りしめ、頭の中で二つの声が激しくぶつかり合う。急に眠気が襲い、昨夜からの疲れが一気に押し寄せてきた。もう考える気力もなくなり、簡単にシャワーを浴びてそのままベッドに倒れ込んだ。
翌朝。美月がカラフルジュエリースタジオのドアをくぐると、ちょうど吉田奈江を囲んで盛り上がっている社員たちに出くわした。
「この前の九条家のパーティー、会場の外には限定モデルの高級車ばっかりだったよ! あそこに入れるのは東京でもトップクラスの人たちだけ!」
吉田は得意げに顎を上げて声を張る。
「コネがあっても入れない人も多いんだよ? 私はちゃんと招待されたんだから!」
少し間をおいて、さらに声を大きくして続ける。
「しかも九条家の御曹司とも直接話したの! 雑誌の写真よりずっとカッコよかった……」
美月は群れを避けて自分のデスクへ向かった。吉田は彼女を見かけた瞬間、わずかに動揺した表情を浮かべた。
吉田の話は半分が本当で半分が嘘。ただ同僚たちに自慢したいだけだった。美月が何も反応しないのを確認すると、吉田は安心した様子で、さらに話を大げさにして一時間近くも司との「親しげな会話」などを語り続けた。
美月はまったく興味がなかった。頭の中は司の提案でいっぱいで、デザイン画を描いては直し、どうしても納得がいかない。イライラして席を立ち、給湯室でコーヒーを淹れることにした。カップにお湯を注ぎながら、彼が車の中で見せたあの横顔と、低く落ち着いた声がよみがえる。
「結婚しよう。」「美月、俺は急いでる。」
「何を考えてるの?」
突然の声に美月はハッと我に返り、手元のカップからコーヒーがこぼれた。振り返ると、吉田がカウンターにもたれてじっと見つめている。
「一声かけただけでそんなに驚く? 何かやましいことでもしたの?」
美月は無視して、紙ナプキンでこぼれたコーヒーを拭き、立ち去ろうとした。
「待って!」吉田が行く手を塞ぐ。「無視しないで。」
「あなたと話すことなんてない。」
美月は冷たく言い放った。あのパーティーで関係が切れて以来、吉田に愛想を振りまく気はなかった。
だが、吉田はしつこく声を潜めて迫る。
「美月、パーティーのこと、絶対に誰にも言わないで!カラフルの人たちはあの界隈と無縁なんだから、あなたさえ黙ってれば、ケンカしたことも誰にもバレないんだから!」
美月は他人を見るような目で奈江を見た。
「あの日は大勢いただろう? 私が黙ってても、誰にも知られないと思う?」
「少なくとも、同僚にはバレない!」
吉田は顔色を変え、低い声で続ける。
「もし余計なこと言ったら、あんたがケンカしてる動画、みんなに見せてやるから!」
美月は眉を上げて、
「つまり、取引したいってこと?」
「そうよ。私がサンプルをこっそり持ち出してたことを黙っててくれれば、あなたのことも黙っててあげる。」
吉田は明らかに脅すような口調だった。
「別に気にしないけど。」美月は淡々と返す。「同僚なんてその程度よ。私がケンカしても、誰にも関係ない。」
「そんなはずないでしょ!」と吉田は声を荒げた。「ちゃんと証拠の録画もあるんだから!」
「で、どうしたいの?」
「余計なことしなきゃいいだけ!」
吉田の目が泳ぐ。
「もうネックレスは元に戻したし、あなたさえ黙ってれば誰にも分からない!」
美月はふっと笑った。
「嵐さん、しょっちゅう監視カメラをチェックするのよ? 自分で見つけたらどうする?」
「そ、そんな……」吉田の顔は真っ青になり、どうやって監視カメラの映像を消すか、必死に考え始めた。
そのとき、笹木嵐のアシスタントがやってきた。
「美月さん、吉田さん、嵐さんがお呼びです。」
吉田は一気に緊張し、美月に告げ口されるのではと不安そうな顔をした。だが、嵐は単刀直入に話し始めた。
「星野夏のチームからオーダーが入った。映画祭用にジュエリーセットをカスタムしたいそうだ。」
二人に目を向けて続ける。
「カラフルのカジュアルラインにとって、これは貴重なチャンスだ。数日後、星野夏さんご本人がメインデザイナーを指名しに来るから、それまでに提案をまとめておいて。」
「必ず満足させてみせます!」
吉田は即座に意気込みを見せ、瞳には野心が光った。前回美月に負けた悔しさを、今回こそ晴らしたいのだ。
美月も静かにうなずいた。
「全力を尽くします。」
オフィスを出たところで、美月のスマートフォンに新しい通知が届いた。
「お預かりしていた男性用スーツのクリーニングが完了しました。いつでもお引き取りいただけます。」
画面を見つめながら、司が自分の肩にかけてくれたあの黒いジャケットを思い出すーー雪松の香りと、彼の手の温もり。三日間の約束も、もう一日が過ぎていた。
あの突拍子もない提案が、今、ますます心の中で現実味を帯びていくのだった。