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第24話 明日、九条グループへ 

美月は今朝アトリエに足を踏み入れた瞬間、昨晩家に持ち帰ったあの黒いスーツのことをようやく思い出した。


そのスーツは最高級のカシミヤ生地で、縫い目もほとんど見えないほど丁寧な仕立て。まさしく司がいつも身につけているオーダーメイドの一着だった。自分で洗おうかと迷い、指先で内側のシルクのタグに触れた時、ふと手が止まる――この素材、普通のクリーニング店に出したら大変なことになるかもしれない。


悩んだ末、彼女はスーツを東京都内で一番高級なクリーニング店に持ち込んだ。店員がタグを見たときの小さなため息に、その服の価値を改めて実感する。


クリーニング店を出た頃にはすでに外は薄暗くなっていた。美月は帰り道、ふとした衝動でケーキ屋に立ち寄り、以前病院で司が何気なく手に取ったショートケーキをテイクアウトした。


松風荘に戻ると、廊下のセンサーライトが彼女の足元で次々と灯り、腕に抱えたスーツの袋がやけに重く感じられる。不思議な緊張感が胸に広がった。


司の部屋のドアを何度もノックしたが、応答はなかった。冷たいドアに寄りかかりながら、今さらのように彼が九条グループのトップであることを思い出す。こんな地味なアパートにいつもいるわけがない。


指先でスーツ袋の金色のロゴを無意識になぞりながら、二人の世界の隔たりを初めてはっきりと感じた――まるで今、彼の家の前に立っている自分が、彼がいつ帰るのかすら知らないことのように。


部屋に戻ってLINEを送ると、「入力中」という表示が何度も現れては消え、最後に残ったのは素っ気ない一文だけだった。

【いつ松風荘に戻りますか?スーツをお返ししたいです。】


そのまま返事はなく、夜の11時になってやっと通知音が鳴った。


R:【明日、九条グループへ。】


たったこれだけ。ビジネス契約のやり取りのような冷たい文面に、美月は画面のアイコンを見つめたまま、病院の廊下で彼が自分を守ってくれた時の掌の温もりを思い出していた。今のよそよそしさが、どうしようもなく胸を塞ぐ。


「わかりました」とだけ返信し、スマホを裏返してテーブルに置いた。


ちょうどその時、突然電話の着信音が鳴り響く。画面には「霧島誠司」の名前。美月はすぐに電話を切り、そのまま番号を着信拒否リストへ――


パーティーで決別して以来、彼は毎日三回は電話をかけてきては、復縁を迫ったり、霧島家の恥だと責めたりしてくる。


うんざりだ。


翌朝、美月は半日休みを取って、スーツの袋を胸に抱えながら九条グループ本社ビルの前に立っていた。68階建てのガラス張りのビルが朝日に照らされ、冷たい光を放つ。エントランスには限定モデルのスポーツカーが並び、思わず袋を強く握りしめる。


このビルをニュースでしか見たことがなかったが、実際に目の前に立ってみると「東京の権力の中心」という言葉の意味がよくわかった。


「申し訳ありませんが、ご予約のない方はご案内できません。」受付の女性はマニュアル通りの笑顔を浮かべつつも、美月のシンプルな白いTシャツとジーンズにさりげなく視線を走らせる。


「社長のご予約は三ヶ月先まで埋まっております。履歴書のご提出でしたら、こちらの専用窓口をご利用ください。」


美月は何も言わず、ロビーのソファに腰を下ろした。司にLINEで「スーツを受付に預けてもよいか」と送って待つこと二十分、ようやく返信が届く。


送られてきたのは電話番号だけで、「秘書の高橋」とメモが添えられている。相変わらず簡潔だ。


電話をかけながら、美月は心の中でぼやいた。たかがスーツを返すだけなのに、まるで事業計画書を提出するみたいだ、と。五分ほどして、高橋が急ぎ足でエレベーターから現れ、プロらしい笑顔で挨拶した。


「小早川さん、お待たせいたしました。」


スーツの袋を受け取るとき、高橋はクリーニング店のカバーを丁寧に確認し、さらに敬意を込めた口調になる。「九条様は今朝、郊外の工業団地に向かわれまして、私に必ず直接受け取るよう指示されておりました。」


美月は「そうですか」と軽く答え、何気なく尋ねる。「九条さん、最近お忙しいんですか?」


高橋は少し言葉を選ぶように間を置き、「本日は……早乙女薇薇さんとお約束がございます。」


「早乙女薇薇?」


美月は顔を上げ、指先でトートバッグの持ち手を無意識にいじる。最近たびたび話題になっている新進女優の名前だ。先月の授賞式で大手財閥の御曹司の告白をあっさり断った彼女が、なぜ司と――?


「はい、」高橋は声を落とす。「早乙女さんはずっと九条様に好意を持っていらっしゃいますし、業界では有名な話です。社長もご年齢的に、社長のお父様からもお急ぎになるようお話があって……」


話の流れが変わり、彼はふと美月に視線を向ける。「でも、社長は数日前にも『小早川さんとは本当に気が合う』とおっしゃっていましたよ。ご心配なく。ああいう女優タイプは、社長はあまり興味をお持ちじゃありません。」


美月は返事をしなかったが、頭の中には病院で司が言った言葉がよぎった。「三日間、考えてくれ。急いでいるんだ。」


もし自分が断れば、翌日には司と早乙女薇の婚約ニュースが流れてもおかしくない。彼にとって結婚は早く片付けるべき取引の一つで、自分はただ選択肢の一つに過ぎないのかもしれない。


昨晩も誠司から新しい番号で電話があり、懇願から脅迫へと口調が変わった。「やり手狙いのLINEを晒すぞ」と言われ、美月の心は重く沈む。高橋の言う通り、今の自分にとって司だけが唯一の突破なのかもしれない。


「高橋さん、」美月はふいに声を出す。「九条さんは……本当に私のことが“気が合う”だけなんですか?」


高橋は微笑み、直接の答えは避ける。「社長からは、小早川さんがいらしたら、すぐに六十八階へご案内するよう言われています。受付にもすでに伝えてありますので、次回はそのままお越しください。」


そう言い残し、高橋はスーツの袋を抱えてエレベーターへと向かった。背筋はまっすぐ伸びている。


美月はビルの前で、ガラスに映るぼんやりとした自分の姿を見つめていた。ポケットのスマホが震え、悠から「どう考えた?」とメッセージが届く。深呼吸してから、「やっぱり九条さんに電話してみる」と返信を打つ。


その頃、68階の社長室では、司が高橋との電話を切り、指でデスクを軽く叩いていた。窓ガラスにはわずかに上がった口元が映る。助手が

「小早川さん、早乙女さんの名前を聞いた時、バッグの持ち手を強く握っていました」と報告すると、その目元にさらに笑みが浮かぶ。


「早乙女薇の件、手配は済んでいるな?」と、彼は背中越しに尋ねる。


「ご安心ください、社長。」


特別秘書がスケジュール表を差し出す。「早乙女さんのチームには“偶然の出会い”記事がすでに送られており、明日の朝にはトレンド入りするはずです。」


司はデスクの上のショートケーキを手に取り、包装には美月の指先のぬくもりがまだ残っていた。丁寧に箱を開け、唇の端がさらに上がる


――この駆け引き、先に動揺する者がいればこそ面白くなるのだ。


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