美月は一日中考え込んでいたが、結論は出なかった。
結婚はそんなに軽く決められるものじゃない。
もし司がただバーで偶然出会った「レックス」だったなら、ここまで悩まなかったかもしれない。でも、「レックス」が九条家の跡取りだとわかった今、簡単には答えを出せなかった。
迷い続ける中、悠から電話がかかってきて、飲みに行こうと誘われた。美月は本来、バーの騒がしさが苦手だったが、酒を飲んで迷いを振り切れるかもしれないと思い、誘いに乗ることにした。
最近の東京は急に冷え込んできた。美月はレンガ色のゆったりしたセーターに、黒のスキニージーンズとマーチンブーツを合わせ、長い巻き髪を無造作に肩に垂らしていた。元々華やかな美貌がさらに引き立ち、ただ、その鋭い眼差しが周囲の人々を少し引き寄せてしまう。
悠は美月の肩を抱き寄せて、騒がしい音楽に負けないように大きな声で言った。
「女二人だけじゃつまんないし、ホストでも呼んで盛り上がろうよ!」
美月は手を振って断った。
「好きにしてて。」
「どうしたの?なんか元気ないみたい。」
悠は美月の様子に気づき、声をかけた。
美月はウイスキーを一気に飲み干し、低い声でつぶやいた。
「ちょっと…悩んでることがあって。」
「まさか、まだ誠司のこと気にしてるんじゃないよね?」
悠は眉をひそめ、美月の手をぎゅっと握った。
「あいつが謝ってきても、絶対許しちゃダメだからね!」
「誠司じゃないよ。」
美月は少し間を置き、ふと思い出したように聞いた。
「悠って、拓海と仲良いんだよね?」
「まあ、仲はいいけど、正直ちょっと面倒くさい人だね。」
悠は口をとがらせた。
「兄の友達なんだけど、いつも偉そうでさ。」
美月の目が少し輝いた。
「拓海って司と親友でしょ?司のこと、ちょっと聞いてもらえないかな?」
「聞くって…何を?」
悠は目を丸くして聞き返す。
「その…恋愛のこととか。」
美月はグラスの縁を指でなぞりながら小さく言った。
「は?なんで急にそんなこと気にするの?まさか、司のこと好きになったとか?」
悠は耳を疑うような顔で尋ねた。
美月は少し顔を赤らめて、「とにかく、聞いてみてほしい」と話を切った。
悠はしばらくじっと見つめた後、スマホを持ってトイレに向かい、ほどなくして、にこにこと戻ってきた。
「聞いてきたよ!」
悠は声を潜めて嬉しそうにささやいた。
「拓海が言うには、司はずっと心に秘めた初恋がいるんだって。でもその人はもう別の人と付き合ってて、チャンスはなかったらしい。それで、今まで誰とも付き合ったことがないんだって!」
美月はそれを聞いて、そっと目を伏せた。
悠は驚きつつも感心したように言った。
「司って意外と一途なんだね。叶わない初恋のせいでずっと恋愛してないなんて。」
美月はふっと息を吐いた。
「それなら、色々悩まなくて済みそう。」
司が心に好きな人がいると知って、むしろ肩の荷が下りた。もし本当に好きな人を大切にしているなら、結婚しても夫婦らしいことをする必要はない。最初はどうして司が急に契約結婚を持ちかけたのか不思議だったが、今は納得できた。
叶わない恋を諦めきれず、家のために誰かと形だけの結婚をしようとしているのだろう。
「そう考えると、結婚しても別に悪くないかも…」
美月は小さくつぶやいた。
悠が急に声を上げた。
「ちょっと待って!誰と結婚するって?」
「まさかまた誠司じゃないよね?絶対にやめなよ!」
「違うよ。」
美月は静かに顔を上げて言った。
「九条司だ。」
悠は一瞬固まり、口を開けたまま動かなくなった。何秒もして、ようやく声を絞り出す。
「ちょっと…酔ってる?司と結婚するって…本気?」
美月は頷いた。
「今、考えてるところ。」
悠はハッと息を呑み、美月の額に手を当てた。
「熱はないよね…ねえ、霧島家の人たちに変なこと言われたんじゃない?司みたいな人、簡単に結婚できる相手じゃないよ?」
美月は悠の手をそっと外し、司からプロポーズされた経緯を話し始めた。話が進むにつれ、悠の口はどんどん開いていき、最後には卵でも入りそうなくらいになっていた。
「そんなことになってたの!?」
悠は美月の手首を掴み、興奮ぎみに叫んだ。
「悩む必要なんてないって!明日すぐに区役所に行こう!」
「お金もあって、かっこよくて、あんなオーラのある人、誠司なんか比べ物にならない!東京中探しても、司以上の男なんていないって!」
美月は悠を座らせて、落ち着かせた。
「ちょっと、落ち着いてよ。結婚ってそんなに簡単なものじゃないんだから。」
「簡単でいいの!今どきスピード婚なんて珍しくないし。まず結婚しちゃえば、離婚だってできるしさ。何もなくても、あんなイケメンと毎日一緒なら、幸せになれるよ!」
悠はいたずらっぽく微笑みながら顔を近づけた。
「それに、結婚したら何か起きるかもしれないし…損はないだろう?」
美月は軽く悠の頭を叩いて、冗談っぽく怒ったふりをした。
「何考えてるのよ、まったく!」
悠は真剣な顔に戻った。
「でも、私は本気だよ。司なら無理に何かを求めてくることもないだろうし、契約結婚なら安心だよ。誠司が美月の結婚相手を知ったら、絶対びっくりするだろう。その時は私がぎゃふんと言わせてやる!」
悠とたっぷり話したことで、美月の中で決心が固まっていく。司がくれた三日の猶予も、もうあと一日しかない。明日には返事をしようと決めた。
翌日、仕事が終わってから、美月はソファに座り込んでスマホをいじりながら何度もメッセージを書いては消し、なかなか送信する勇気が出なかった。気がつけば、時計の針はもう夜の八時を指していた。それでも、まだ迷いは消えなかった。
その時、突然部屋が真っ暗になった。美月は驚いて起き上がり、管理会社に電話をかけたが、三度もかけても繋がらない。思わず心の中で司の「電気工事の改善」の話を思い出し、ちゃんとやってくれてるのかと疑いたくなった。
暗闇の中、スリッパを履き、そっと隣の部屋へ向かう。ドアの隙間からは、司の部屋の明かりが漏れていた――今夜は彼は戻ってきているらしい。美月は仕方なくドアをノックした。
その頃、司はちょうど洗面所で手を洗っていた。指先にはまだ少し埃がついている。階段室から戻ってきたばかりだった。美月の返事を待つ間、ずっと落ち着かず、今日は全ての予定をキャンセルしてわざわざ電気の「点検」に戻ってきていた。
美月が霧島家の人たちに説得されて気持ちが揺れてしまわないように、何か手を打たなければと考えていたのだった。