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第26話 明日区役所に婚姻届を出しに行こう

薄暗い階段の踊り場で、司の大きな背中が電気ブレーカーの前に立っていた。少し操作しただけで、廊下の明かりが再び灯った。


「ありがとう」――美月は急に戻った明るさにほっとしつつ、司の提案にまだ返事をしていなかったことを思い出す。


司はゆっくりと近づき、美月を壁際に追い詰めた。爽やかな杉の香りに、かすかなタバコの匂いが混じり、鼻先がくすぐったくなる。心臓が一瞬跳ねる。


「美月、考えてくれた?」司は見下ろし、強い眼差しを向ける。


美月は見上げ、危うく彼の顎にぶつかりそうになりながら、少し怯えた声で応える。「ま、まだ考え中で……」


「もう待てない」司の指先が、ほとんど美月の髪に触れそうになる。「今日、はっきり答えてほしい」


その目に引き込まれそうで、美月は言葉を失う。司はさらに誘惑するように言う。


「ただの契約結婚だ。深く考える必要はない。結婚後は何も求めないし、毎月二百万円は渡す。欲しいものがあれば、何でも買ってあげる。損はないと思うが…」


「二百万円も……?」美月は思わず息を呑む。さすがは名家の御曹司、条件が桁違いだ。


司は美月の様子を見て、少し眉を上げた。「足りない?増やしてもいいけど?」


「い、いいえ!」美月は慌てて手を振る。


ふとネットで話題になった「理想の結婚生活――夫はお金だけ振り込んで家に帰らない」が頭をよぎる。目の前の彼はまさにその理想形。別にお金が目的じゃない。ただ、この金額は彼の誠意の証だと感じた。


「……わかった。承諾する」


司の瞳が一瞬揺れるが、すぐに落ち着いた声で言う。「じゃあ、明日区役所に婚姻届を出しに行こう。」


「そ、そんなに急いで?」美月は息を呑み、顔が熱くなる。


司は半歩下がって距離を取るが、口調は変わらない。


「おじいさんが病気が重くて、早く結婚するのを見たいと言っているんだ。」と、まるで他人事のように淡々と続ける。「今の状況をわかってほしい」


「……わ、わかった」


「じゃあ、明日朝一で区役所な」


すべてが夢のように進んでいく。美月は唇を噛む。


「少し準備の時間をもらえる?」


司は再び近づき、温かい息が耳にかかる。「準備が必要なら、今夜中に何でも揃えてあげるよ」


実際、届け出に必要なものはそれほどでもない。それでも美月にはあまりにも急すぎると感じる。


司はさらに畳みかける。「おじいさんの病状は待ってくれない。美月、君も放っておけないだろう?」


心の中で「そんなの……」と突っ込みつつも、「……放っておけない」と口にする。


「じゃあ、明日朝一だ」


まるで罠にかかった気分だが、相手が司なら、どう考えても損はない。美月はふと大事なことを思い出す。「明日の朝、先に叔父家に寄ってからでもいいか?」


「いいよ」司はすぐに頷く。「明日の朝、迎えに行く。用事が済んだらそのまま区役所へ行こう」


美月は心の中で呟く――九条家のおじいさんが本当に危篤なのか、それとも司が急いで自分を結婚で縛りたいだけなのか?最近、経済ニュースで九条家の話を見かけないし……


翌朝、黒いベントレーが小早川家の屋敷前に止まった。美月は一人で車を降り、深呼吸して玄関を開ける。


目的は、かつて誠司と婚約した際に霧島家から贈られたルビーのネックレスを取り戻すこと。あの頃、小早川家が栄華を極めていたため、叔母が預かっていたが、これを返してもらわなければ、過去の縁を断ち切ることができない。


リビングには華子だけがいた。コーヒーを飲みながら経済新聞を読んでいる。美月の姿を見ると、顔も上げずに皮肉を言う。


「あら、玉の輿狙いのお嬢様じゃない?この前の九条家のパーティーで有名になったのに、今日はわざわざ“貧乏な親戚”の家に?」


美月は冷たく見返す。「私のことはあなたたちとは関係ない。恥をかいたのは蕾で、私じゃない」


華子はカップをテーブルに叩きつけ、立ち上がった。「何よ、その態度!これまでずっと面倒見てやったのに、偉くなったらもう他人扱い?」


また“育ててやった恩”の話だ。「くだらない恩着せがましいことはやめて。霧島家からもらったルビーのネックレス、返して」


華子はしばらく黙って考えた後、警戒心をあらわにする。「何に使うつもり?誠司に返して婚約破棄でもする気?」


「私のものを取り戻すだけよ。あなたに説明する義務はない」美月はきっぱりと言う。数分で済むと思っていたが、華子は簡単には渡さない。


「私は叔母として預かっているだけ。誠司とちゃんと結婚すれば、返すつもりだったのよ」と、しらばっくれる。実際、このネックレスは美月の母・花が高い金額で特注したもので、今では価値も十倍以上。そう簡単に手放す気はないのだ。


美月は鼻で笑う。「預かってるだけなら、今すぐ返して。あなたが勝手に決めることじゃない」


「ダメよ!そんな高価なもの、あなたに渡したらどうなるか分かったものじゃない!」


華子の欲深い表情を見て、美月はもう言葉を尽くす気になれなかった。スマホを取り出し、そのまま警察に電話をかける。


「もしもし、警察ですか?私の財産が不当に占有されています。十年以上前は数千万円、今は二億円以上の価値があります。叔母が私の婚約記念品を勝手に保管し、返してくれません」


電話口でオペレーターが何かを尋ねると、華子の顔がみるみる青ざめ、手が震えながら美月を指差す。


「美月……警察に通報するなんて、恩知らずにもほどがある!」

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