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第27話 私たちはもう夫婦だ

「なんで警察を呼ぶのよ!今すぐ電話を切りなさい!」


華子はソファから飛び上がり、まるで取り乱したように美月に向かって飛びかかった。スリッパの片方が脱げてしまうほどだった。


美月はすばやく身をかわし、手際よくスマホの画面を消した。


「もう通報したわ。警察はすぐに来るって」


華子はその場にへたり込んだ。「こんな些細なことで、いちいち警察沙汰にする必要があるの?」


「些細なこと?」美月は冷たく言い放つ。「なら、どうしてあれだけ返すのを渋ってきたの?」


「でも警察なんて……!」華子は叫ぶように、「あなた、叔母の私に対してその態度は何なの?」


美月は淡々と、しかし反論を許さない空気で言った。


「あと二分あげる。その間にネックレスを出して。そうすれば警察には取り消しの連絡をするわ。でも、もし返さないなら――警察が来た時、あなたたち家族が私の数億円もする家宝を隠していたと説明することになる。全員、ただじゃ済まないわよ」


……


華子は完全に動揺し、美月を鋭く睨みつけた。「分かったわよ、まったく……!」と吐き捨てると、ふらつきながら二階へ駆け上がっていった。


美月はその背中を見つめながら、内心で冷たく思った。実のところ、さっきの電話は繋がってすらいない。ただの脅しに過ぎなかった。もし華子が少しでも冷静だったら、住所すら伝えていないことに気づいたはずだ。


だが「数億円」や「全員捕まる」という言葉に、完全に怖気づいたのだろう。


自分の物を返してもらうだけで、これほど苦労する。小早川家は、もはや自分を家族と思っていない。その失望が何度も積み重なり、美月の中の情も、とうに消え失せていた。


ほどなくして、華子が慌てて階下へ戻り、巧妙に包まれた箱を美月に押し付けた。「これがレックス!早く警察に取り下げの連絡をして!」


美月は箱を受け取り、中のルビーのネックレスを確かめる。間違いないと確認すると、何も言わずに背を向けて歩き出した。


華子は慌てて追いかけ、声を震わせた。


「美月!警察の件、ちゃんと連絡して!家族同士でこんな騒ぎ、警察に見られたらどうするの?本当に聞いてる?今すぐ電話して!」


美月は振り返りもせず、ただスマホをひらひらと見せて、「分かってる。警察は来ないわよ」とだけ言い残し、華子が玄関に来るより早く、家を後にした。


小早川家の邸宅からしばらく歩いたところで、美月は立ち止まり、振り返って三階建ての立派な家を見つめた。この高級住宅地に小早川家が引っ越してきたのは、両親が亡くなり、叔父の小早川健司が家業を継いでからのことだった。


小早川家の財産がどこから来たのか――美月には分かっている。その後、叔父が事業に失敗し、家計が傾いてからは、美月への扱いもますます冷たくなった。当時の幼い自分には、両親の遺産を守る力もなかった。


今、改めてこの豪華な家を見上げると、ただ胸が痛む。小早川一家が、なぜ当然のようにこの生活を楽しめるのか。心の奥底から、強い思いが湧き上がる――自分のものは、必ず自分の手で取り戻す、と。


美月はもう一度だけ家を見て、未練を断ち切り、待っていた黒いマイバッハの方へと足早に向かった。


「受け取れた?」運転席の司が尋ねる。


「ええ」美月は助手席に座り、箱を膝に乗せ、白い指先でそっと蓋を撫でる。


司はエンジンをかけた。「それじゃ、区役所へ向かおう。美月、もう後戻りはできない」


美月は静かに目を伏せた。「後悔はしないわ」


車は静かに大通りに出る。司はちらりと彼女の膝の上の箱を見て、「そんなに大事なものなのか?わざわざ取りに行くなんて」と言った。


美月は箱の繊細な彫刻を無意識に指でなぞりながら答えた。


「霧島家との婚約の証だったの。ルビーのネックレス。美和さんが特注したもので……婚約を解消した以上、私の手元に置いておくわけにはいかない」


少し間をおいて、「婚姻届を出したら、直接霧島家に返しに行くつもり。……両親と美和さんにも、きちんとけじめをつけなきゃ」と言葉を継いだ。


司はハンドルを握る手をそっと緩め、表情が少しだけ和らいだ。「そうか」とだけ静かに返した。


やがて車は区役所に到着。まだ朝早いせいか、婚姻届の窓口には誰もいない。二人はその日の一番乗りだった。


美月は手続きに不慣れだったが、司はまるで何度も経験してきたかのようにテキパキと案内し、迷いなく書類を進めていく。その様子には、一切のためらいもなかった。二十分もかからず、二人分の新しい婚姻受理証明書が手元に渡された。


区役所を出ると、美月は証明書を手のひらに握りしめ、ずっと張り詰めていた心の糸がようやく緩んだ。一方で、現実感のない大きな戸惑いが胸に押し寄せる。司と入籍したのか――こんなにもあっけなく。まるで夢の中の出来事のようだった。


二十数年生きてきて、誠司以外の誰かと、こんなふうに結ばれるなんて、思いもしなかった。


しばらく無言のまま二人で車まで歩いた。


「九条さん、ご用があるなら、私はここから直接タクシーで霧島家まで行ってもいい」

美月はそう言って辞退しようとした。


「今日は時間がある。送るよ。乗って」

司はすぐに助手席のドアを開け、その口調は断固としていた。


本当は遠慮したかった。契約結婚なのだから、距離を置くべきだという気持ちが美月にはあった。

けれど司の「乗って」という一言には、どこか年長者のような威圧感があり、逆らえずに素直に座ってしまう。


美月は箱をそっと抱え、「ご迷惑をおかけして」と小さく呟いた。


司は前を向いたまま、「気にするな」と短く返す。


車は静かに走り出し、角を曲がる。しばらく沈黙が続いた後、司が低い声で口を開いた。


「迷惑なんかじゃない」

少し間をおいて、朝日の中でその横顔はひときわ凛としていた。

「私たちはもう夫婦だ。夫が妻を送るのは、当然のことだろう」


前を向いたまま、淡々とした口調で続ける。「それと、これからは“司”でいい。敬語は必要ない」


美月は思わず胸が高鳴り、耳の先がほんのり赤く染まる。それでも、できるだけ平静を装い、「……はい」と、小さく返事をした。

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