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第29話  俺の妻

真美子の声が急に高くなり、驚きと呆れが混じっていた。最初は信じられずに固まっていたが、すぐに大きな冗談でも聞いたかのように、甲高い笑い声を上げた。


真美子は絶対に信じなかった。相手が普通の人ならまだしも、九条司だなんて——東京の頂点にいるような人が美月と関わるはずがない、と。


美和もまた信じられない様子で、美月を見つめながら声を震わせた。


「美月、本当に誠司のことで頭が混乱してるんじゃないの? 九条司なんて……」

あの若さで九条グループを率いる男が、ただ者ではない。


「美和さん」と美月は真美子の嘲笑を無視し、まっすぐに美和を見つめて言った。「私が証明書を偽造して誤魔化すと思いますか? まして相手は九条グループの社長です、そんなことしたら犯罪ですよ。」


その瞳は澄んでいて、揺るぎなかった。


美和はその一瞬だけで、美月が嘘をついていないと悟った。


次の瞬間、彼女の目に涙が溢れた。


「お母さん! 騙されちゃダメよ!」と真美子は慌てて立ち上がり、「本当に九条さんが彼女と結婚するなら、私が逆立ちして歩いてやるわ!」と叫びながら、スマホを取り出して証明書の偽物の見分け方を検索し始めた。


美月は彼女を冷ややかに見つめて言った。

「いいですよ。もしこの証明書が偽物だと証明できたら、私も逆立ちして歩きます。」


真美子はスマホを持つ手が止まり、だんだんと顔色が悪くなっていった。最後には力が抜けたようにソファに沈み込み、呆然とつぶやいた。

「そんなはず……お母さん、私、目がおかしくなったのかな……」


美和は美月の手を握りしめ、目を真っ赤にして泣いた。

「バカな子……誠司に腹を立てて、その辺の男と結婚なんてしちゃダメよ! これは一生のことなのに……」


「彼は、“その辺の男”なんかじゃありません」と美月は思わず少し不満そうに反論した。


「司さんは私より6歳年上で、見た目も中身も一流。資産だって誠司なんか足元にも及ばないし、東京中探しても彼に並ぶ人なんてほとんどいません。適当な相手ではありませんよ。」


「それは……」美和は涙を拭いながら、「確かに誠司なんかよりずっと立派な方だと思うけど、そんな雲の上のような人が、本当に美月を大事にしてくれるの?」


「とても大事にしてくれます」と美月はきっぱりと言った。短い付き合いでも、彼のさりげない優しさを感じていた——病院に送ってくれたり、上着を掛けてくれたり、今も外で待っていてくれる。何もしてくれなかった誠司より、司の方がよほど温かかった。


「美和さん、私にはもう新しい家があります。安心してください」と美月は改めて伝えた。


美和の涙はさらに止まらなくなった。

「私……もう、何て言えばいいか……誠司が不甲斐ないのよ、あなたにはもったいない人だった……」


美月はテーブルの上の箱に目を落とした。

「美和さん……」


「わかってるわ」と美和は嗚咽交じりに美月の言葉を遮った。「あなたと誠司には縁がなかったのね……昔の証はもう意味がないものね。今、取りに行ってくるわ。」


そう言って、重い足取りで階段を上がっていった。


その背中を見送りながら、美月は心の中で「ごめんなさい」と呟いた。霧島家が招待状を取り下げたことで、美和はきっと正義の怒りを受けることになるだろう。


「ふん!」と、真美子が我に返って皮肉たっぷりに言い放った。

「まさか、あなたが九条司を手に入れるなんてね! あんな男を夢見る女は山ほどいるのに!」


強い嫉妬心で、口をついて出る言葉も止まらなかった。

「あの日、病院で見たときから怪しいと思ってたのよ! どうせ何か卑怯な手を使って、嫌らしい写真でも撮って脅したんじゃないの?」


美月の顔色が一変し、勢いよく真美子の頬を叩いた。


「口の利き方に気をつけなさい!」


「殴ったわね!?」真美子は頬を押さえ、怒りで飛び上がったが、手を振り上げた瞬間、美月に手首を強く掴まれて顔をしかめた。


「あの日、私が手を出さなかったのは美和さんの顔を立ててのこと。でも今日のは、あなたの汚い口のせいよ」と美月は力強く彼女をソファに突き戻した。


「私は誠司と別れてから司と出会ったの。司にも、私にも敬意を払いなさい!」


「口だけは達者なんだから!」真美子は顔を押さえながら怒鳴った。「どうせ前から付き合ってたくせに、よく言うわ! そういう偽善者が一番ムカつくのよ!」


美月は自分の結婚証明書を手に取り、きっちりとしまいながら言い返した。

「不倫して浮気相手を作った兄貴をかばい続けるなんて、あんたのような女、それとも根っからおかしいの?」


「なっ……!」真美子は怒りで顔を真っ赤にした。


「それで終わり? さっき”逆立ちして歩く”って言ってたよね?」と美月は冷ややかに見下ろした。「私はちゃんと待ってるから。」


真美子は何も言えず、無理やり平静を装って顔をそむけたが、ソファの隙間からこっそりスマホを取り出し、誠司に急いでメッセージを送った。


【お兄ちゃん! 大変なことになった!】

【美月が暴走してる!】

【あんたに当てつけて、九条司とスピード婚したって!!】


その時、美和が小さな指輪の箱を持って階段を降りてきた。中には、どこか懐かしいブルーサファイアの指輪が入っている。美和は名残惜しそうにそれを美月に手渡した。


「あなたと誠司の縁は終わっても、私たちの絆は変わらないわ。私はずっとあなたを娘のように思っているから……時間ができたら、いつでも顔を見せてね。」


「はい」と美月は指輪の箱を受け取り、胸の奥が重くもあり、少しだけ楽になった気もした。


霧島家を出て、美月は大きく息を吸い込んだ。まるで重い荷物を降ろしたように、空気が一段と澄んで感じられた。


司の車はまだそこに停まっていた。美月がドアを開けて乗り込むと、司が訊いた。


「全部済んだ?」


「うん」と美月はうなずいた。その視線が彼女の手元の指輪の箱に注がれているのに気づき、箱を軽く振って見せる。


「ほら、昔の証。返してもらった。これで誠司との関係はきっぱり終わり。」


司はふいに身を乗り出してきた。冷たいシダーの香りが美月を包み、温かな吐息が耳元をかすめた。心臓が跳ね上がり、思わず息を止めた。


「どうしたの?」と美月は緊張気味に尋ねた。


司は口元に微かな笑みを浮かべ、いつの間にか長い指の間にネックレスを持っていた。宝石が光にきらめき、見ただけで高価だと分かる。それはさっき返したネックレスとは、まったく違うものだった。


美月は一瞬、呆然とその手元を見つめた。今朝家を出た時、彼がこのネックレスを持っていなかったのは確かだ。

ほんの数時間で……わざわざ準備してくれたの?自分のために?


胸の奥がドキドキと高鳴り、呼吸が少し速くなる。


司はさらに近づき、素早く彼女の耳元に触れたかと思えば、自然な手つきでネックレスをそっと首にかけてくれた。


「ルビーじゃ、君には釣り合わない」と低く穏やかな声で言った。「これこそ、君に似合う。」


司は深いまなざしで美月を見つめ、一言一言はっきりと告げた。


「君が昔の証を返したなら、俺は新しい証を贈る。これが俺の証だ。」


「俺の妻には、もう何一つ、我慢させない。」

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