司はすぐに体勢を整え、運転席にきちんと座り直した。
「好き?」と彼が尋ねる。
美月はやっとの思いで声を出した。「うん、好き……」
実は、首にかけられたネックレスがどんなふうに見えるのか、彼女自身もよく分かっていなかった。
司は微笑んだ。「それならよかった。」
彼の視線は美月の膝に置かれた指輪のケースに移る。
「俺がプレゼントしたんだから、君も何かお返ししてくれるんじゃない?」
美月は一瞬戸惑い、申し訳なさそうに言った。「何も用意してなくて……数日後でもいい?」
「それじゃこっちが損した気分になるな。」司は指で指輪のケースをトントンと叩いた。「これを俺にくれない?」
「え?」
美月は渡したくなかった。これは母から受け継いだ大切な指輪で、大事にしまっておきたかったのだ。
ケースを開けると、中にはサファイアの指輪が静かに収まっていた。
司の目が一瞬暗くなる。「これ、いいね。」
美月は言った。「だいぶ前のデザインだし、そんなに高価なものでもないよ。せいぜい数十万円くらいだし、やめておこうよ。」
「でも俺は気に入った。」
司は淡々とした表情で、特に強引に求める様子はなかった。しかし、一度口にした以上、美月が断ればケチに見えてしまう。
美月が迷っていると、司がまた言った。「もし後日お返ししたいなら、それでも構わないよ。無理しなくていい。」
美月は横目で彼を見た。表情は変わらないが、どこか寂しそうな雰囲気が漂っている。
思い切った美月は指輪を差し出した。
「じゃあ、気に入らなくても文句言わないでね。」
「もちろん。」
司はそれを受け取り、自分の薬指にはめた。
本当は美月に着けてもらいたかったが、無理に頼んで彼女を困らせたくなかったのだ。
司の指は長くて綺麗で、彼の顔立ちと同じく見惚れるほどだ。だが、指輪は少し大きかった。
美月は唇をかみながら言った。「……ちょっと大きいみたい。人差し指にはめたら?」
司は手を挙げて指輪を見つめた。
「いや、ちょうどいいよ。」
美月は言葉を失った。
車はすぐに走り出し、美月は司に「カラフルジュエリースタジオまで送って」と頼んだ。
道中、美月は言った。「もう“小早川さん”って呼ばなくていいよ。」
司は「じゃあ、何て呼べばいい?」と返した。
美月は「名前で呼んで」と答えた。
「わかった。」司はうなずき、低く澄んだ声で「美月?」と呼んだ。
その呼び方に美月は全身がじんと痺れるような感覚を覚えた。
どうしていつも司はこんなに誘惑してくるんだろう……。
車が半分ほど進んだところで、司が聞いた。「結婚式、どうするつもり?」
「結婚式?」美月は一瞬驚き、「やらないほうがいいと思うよ」と答えた。
二人は条件付きの結婚で、互いに感情があるわけでもなく、いずれ離婚する予定だ。余計な人に知られるべきではないし、離婚した後もお互いに影響が出ないようにしたかった。
それに、司の立場を考えれば、結婚を発表すればきっと週刊誌の表紙を飾ることになる。
司は少し黙ったあと、「分かった。君の希望どおりにしよう」と答えた。
今はその時じゃない――
いつか必ず、美月のために盛大な結婚式を挙げてみせる。
スタジオに近づいたとき、美月は結婚証明書を取り出し、何枚か写真を撮った。
司が横目で見ていると、美月は気まずそうに笑って言った。「悠に送るんだ。証明書をもらったらすぐ知らせるって約束してたから、さっき忘れてて。」
「うん。」
車が会社の前に止まり、美月が降りると、司も自分の結婚証明書を取り出してしばらく眺めた。
美月が友達に写真を送るのを見て、自分も誰かに自慢したくなった。
彼は携帯をいじり、拓海に電話をかけた。「今夜、飲みに行こう。」
夜9時、六本木の高級会員制クラブ。
拓海は何杯か飲んで退屈そうに愚痴をこぼした。
「昨日誘った時は来なかったのに、今日は呼び出して。二人で酒飲んでるだけじゃつまらないから、ほかの人でも呼んで麻雀でもする?」
「いいよ。」
麻雀卓を囲んで、司は拓海の左側に座った。
彼はわざと右手を卓の上に出し、指輪を拓海の目の前で見せびらかす。
「その指輪、やけに大きくないか?」と拓海が関西弁混じりに気軽に尋ねた。
司はその質問を待っていた。
「今日、もらったばかりでまだサイズ直してないんだ。」
拓海は牌をいじりながら、何気なく聞いた。「誰からもらったんだ?」
「妻から。」
「妻? 誰のこと……?」
拓海は一瞬で反応し、椅子から飛び上がりそうになった。「は?お前、いつ結婚したんだよ?!俺が熱でもあるのか、お前がどうかしてるのか?!」
司の口元には、どうしても抑えきれない微笑みが浮かんでいた。
結婚証明書を出して、拓海の前に見せつける。
拓海は数十秒固まり、ぎこちない手つきで証明書の表紙をめくった。
もう一方の手でオーバーに額を押さえ、白目をむいて叫んだ。「うそだろ、気絶しそうだ!薬くれ、誰か!」
「小早川美月……」拓海は証明書の名前を一語ずつ読み上げた。
頭が真っ白になり、「俺、字読めなくなったのか?幻覚かな?」とつぶやく。
司は一瞬だけ証明書を見せると、すぐにしまい込んでポケットに大切そうに収めた。
「間違いないよ。」
拓海は叫んだ。「お前、本当に結婚したのかよ!?」
司は冷静に、「なに?うらやましい?」と返す。
「うらやましいわけないだろ!衝撃的すぎてビビってるんだよ!」拓海は椅子の背にしがみつき、司をじっと見た。
「頭打ったのか?みんな知ってるぞ、美月は誠司と色々あったって。それをお前が嫁にもらうなんて!」
「お前は一生独り狼でいると思ってたのに、こっそり役所で婚姻届出してきたのかよ!?」拓海の声は信じられないほどだった。
司は一瞥して、「彼女は誠司ともう別れてるし、婚約も解消した。いつまでも誠司のために生きなきゃならない理由はないだろ。」
「まあ、そうだけど……」拓海は机の上の水を一気に飲み干し、動揺を抑えた。「それで、どうやって美月とくっついたんだ?騙されたんじゃないのか?まさか呪術でもかけられたんじゃ……」と司の顔をじっと見つめる。
「騙されたんじゃない。」司は指輪を撫でながら、さらに深く微笑んだ。「俺が騙したんだ。」
「は?」拓海は司の言葉が信じられず、声が裏返った。
「家族から早く結婚しろってせかされてるって言ったんだ。」
拓海はまた大声で叫び、卓を叩いた。「お前の家族でお前に強く言えるやつなんていないだろ!お父さんだって逆らえないのに!純粋に美月を騙しただけじゃないか!罪悪感はないのかよ!」
司は気にした様子もなく、笑顔で言った。「それに、おじいさんが重病で私の結婚式が見てみたいだって言ったんだ。」
拓海は目を見開いて、「確かにおじいさんは体調良くないけど、そんなに危ないわけじゃないだろ!この前会った時も元気そうだったし!」
「必要な時は“重病”にもなるんだよ。」司は天気でも話すような口ぶりだった。
「……」拓海は呆れ果てて、司を指差しながら手まで震えた。「お前、完全にイカれてるな!詐欺で捕まるぞ!婚姻届を不正に出したって役所に通報してやる!」
司は鼻で笑い、全く取り合わなかった。
拓海は椅子にぐったりもたれかかり、こめかみを揉みながら言った。「前から不思議だったんだよ。お前、好きな人がいたんじゃなかったっけ?イギリスにいた時もずっと忘れられないって言ってたのに、どうして急に結婚するんだ?まるで電撃戦だな!」
司は口元を満足そうに緩め、薬指の指輪を見つめて、静かに、はっきりと答えた。
「それが美月なんだ。」
初めて、司は拓海に本心を明かした。
「俺がずっと好きだった相手――それが美月だよ。」