拓海はずっと、司が心に思い続けている相手はイギリスにいるのだと思っていた。
だから、司がその想いの相手が美月だと打ち明けたとき、拓海は完全に言葉を失った。
無理もない。司が今まで意図的に要点をぼかしていたのだから。
司が大切にしている人は、イギリスに住んでいるわけではなく、かつて一時的に滞在していただけだったのだ。
司と美月が再会したのは、本当にロンドンのあのホテルからだった。
当時、司は海外での事業基盤を固めており、彼を狙って一攫千金を目論む者も少なくなかった。どれだけ用心していても、隙が生まれることはある。
ある日、薬を盛られて意識が朦朧となり、かろうじて残った理性で部屋を飛び出し、廊下の奥で温かい腕に飛び込んだ――それが美月だった。
彼女は躊躇なく司を病院に運び、治療費も立て替えてくれた。
司が目を覚ましたとき、彼女は簡単な説明だけして、すぐに去っていった。
実は、美月が彼を支えたその瞬間、司は彼女が誰なのかすぐに分かった。
それは初対面ではなく、長い時を経た再会だったのだ。
初めての出会いも、やはり病院でのことだった。消毒液の匂いと心底から湧き上がる冷たさが、司の心に深い傷として刻まれている。
だが、そんな寒々しい場所で、彼は美月と出会った。
小さかった彼女は泣きはらした目で、それでも手の中に握っていたキャンディをそっと司の手に渡してくれた――
その後、司は急遽海外へ送られ、美月と音信不通になった。
何年も経ち、再び美月と出会ったとき、彼女のどこか他人行儀で控えめな視線から、司はすぐに悟った。彼女はすでに、あの日病院で出会った少年のことなど覚えていないのだと。
彼女にとって、あの出会いは一瞬の出来事でしかなく、自分はただの通りすがりに過ぎなかったのだろう……
高橋が病院に駆けつけ、退院する頃には犯人も捕まえた。
司の厳しいやり方を知る高橋は、犯人がどれほど酷い目に遭うのかと身構えていたが、意外にも司は怒らず、高橋に警告だけを言い渡した。
退院後、司はわざわざ美月と出会ったホテルの最上階に滞在した。
再び彼女に会えることを願っていたのだ。しかし、次に見かけた時、美月は若い男性に腰を抱かれ、楽しそうに街灯の下を歩いていた。
その瞬間、司は美月に婚約者がいることを知った。
その男性――誠司はイギリスに留学中で、幼なじみとして幼い頃から婚約していた。
何度か司は影のように二人の後をつけ、美月の幸せそうな笑顔を遠くから見つめては、自分の想いを必死に押し殺した。
伝えることも、気付かせることもなく、ただ、静かに心の奥にしまい込むだけだった。
美月はその後も何度かイギリスを訪れたが、司はいつも遠くから見守ることしかできなかった。たまに顔を合わせても、適度な距離感と礼儀を保ち続けた。
誠司が帰国すれば、二人は結婚することになっていた。
それでも結婚式が近づく頃、司はどうしても気持ちを抑えきれず、帰国の飛行機に乗った。
ここ数年、司の事業の中心はすでに日本へと戻りつつあったが、九条家本家の面倒事を避けて、なかなか帰国しなかっただけだった。
彼女の晴れ姿をこの目で見たら、またイギリスへ戻り、淡々とした日々に戻るつもりだった。
遠くから一目見られれば、それでいい――。
ところが帰国後、美月と誠司に関する噂が、次々と耳に入ってきた。
誠司には外に愛人がいて、美月との結婚は昔の約束と家の都合によるものだった。
彼女はイギリスの街角で見かけたあの幸せそうな姿とは程遠かったのだ。
心の奥に押し込めていた想いが、一気に芽吹き、司はもう自分を抑えきれなかった。
彼女を誠司から奪いたい――その衝動が、どうしても止められなかった。
予想外だったのは、美月が自ら婚約解消を申し出たことだった。
司がこの情報を聞いた時、どれほど心が揺れ動いたか、誰にも分からない。
その後のことは、ほぼ司の予想通りに進んだ。
美月は純粋で、「契約結婚」という言葉にあっさり同意した。
美月の心にはきっと誠司の影が残っていて、自分との結婚は仕方ない選択なのだろう。
だが、司は必ず彼女の気持ちは変えられると信じていた。いつかきっと、自分が誠司の代わりとしてではなく、彼女のすべてになる日が来ると――。
その日を信じて、彼女が心を開き、信頼を預けてくれるまで、どれだけでも待つつもりだった。
「一年だけ」という約束は、彼女を縛るための方便に過ぎない。本当は、どんな手を使ってでも、彼女を自分のそばに留めておくつもりだった。
だが、それには時間をかけて、慎重に進めなければならなかった。
深夜、カラフルジュエリースタジオはほとんどの灯りが落ちていた。美月のデスクの上だけが、ぽつんと明るく照らされている。
もうすぐ星野夏のチームが来て、メインデザイナーが選ばれる。なのに、なかなかインスピレーションが降りてこない。退勤間際になってようやくアイデアが浮かび上がり、美月はすぐに作業へと没頭した。
周囲にはもう誰もいない。広すぎるオフィスは静まり返っていた。余計な灯りを消し、デスクの上だけを照らして、集中してラフを描く。
やっと凝り固まった体を伸ばした時、ドアの方から小さな物音がした。
美月が振り返ると、もう帰ったはずの吉田が入り口で立ち止まっていた。
「おや、ずいぶん熱心ね?」吉田は驚いたように眉を上げて言った。
美月は応じず、静かにマウスを動かし、画面のデザイン案を閉じた。
無視された吉田は小さく鼻を鳴らして言った。「何を警戒してるの? あなたの案なんて興味ないわよ。私はもう仕上げてるし、欲しくもない。さっさと諦めた方が身のためよ。どうせ選ばれないで泣きたくなるのがオチなんだから。」
美月は椅子を回し、吉田と正面から向き合った。「選ばれるかどうかは、星野さんの好み次第。たとえ選ばれなくても、ただのひとつの経験に過ぎない。泣くほどのことじゃない。でも、あなたこそ、このチャンスに賭けすぎてるんじゃない? 本当にダメだった時、大丈夫?」
この一言が吉田の痛いところを突いたらしく、彼女の表情が険しくなった。ヒールを鳴らして美月の目の前まで詰め寄り、
「人をバカにしないで! 私、別にこの仕事に頼らなくても生きていけるの。いざとなれば家に帰ればいいし、カラフルだってうちの力なら買えるわよ。数億円なんて大したことないんだから!」
吉田家がある程度裕福なのは確かだが、カラフルの買収など大げさもいいところだ。
美月は淡々と返す。「そう。じゃあ、どうして九条家のパーティーには呼ばれなかったの?」
「なっ……!」吉田は一瞬顔を赤くし、美月を睨みつけると、「覚えてなさいよ!」と捨て台詞を残して出て行った。
あのパーティーで恥をかいて以来、吉田は司を気にしている。もし九条家の後継者と縁ができれば、家の格も一気に上がる。そうなればカラフルの買収どころか、美月に思い知らせることもできる――そんな算段を巡らせていた。
吉田の姿が消えたあとも、美月はわずかに眉をひそめた。
退勤後に戻ってきて、どこか落ち着かない様子……どうも様子がおかしい。
美月は静かに立ち上がり、あとを追った。