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第32話 演じるなら徹底しろ


美月はひそかに吉田の後をつけ、階段の踊り場の陰に身を潜めた。


息を殺して様子を見ていると、吉田は若い警備員と小声で何か話している。警備員は二十歳そこそこの新入りだ。


吉田の態度は高圧的で、あからさまに嫌悪感を隠そうともしない。普段とは明らかに違っていた。


美月はすぐに気づいた——吉田は警備員に監視カメラの映像を消させようとしているのだ。


さっき渡したカードは、その報酬だろう。


カラフルジュエリースタジオの監視室には警備員しか入れない。吉田自身ではどうにもできず、深夜にわざわざ来たのだ。


だからこそ、さっき上に戻って誰か残っていないか確認したのだろう。美月と鉢合わせしたときの一瞬の動揺も、今なら納得がいく。


吉田が用事を済ませて足早に去っていくのを見届けると、美月は何事もなかったかのように階上に戻り、荷物をまとめて会社を後にした。


霧島家のリビングは、まるで嵐が通り過ぎた後のように荒れていた。


正義は怒りを爆発させ、誠司の頬を強く叩いた。


「役立たずめ!お前が美月はお前に夢中だから多少外で遊んでも大丈夫って言ったんだろうが?このザマは何だ!女一人もつなぎ止められないのか!今や東京の上流社会で、お前と清夏のことを知らない者はいないぞ!」


誠司は顔を押さえながら反論した。「清夏とは別に……公にしたことはない……」


「言い訳するな!」正義はさらにもう一発叩きつけた。「誰が見てもバレバレだ!この前九条家のパーティーでの騒ぎも覚えてないのか?」


誠司は震え上がり、黙り込むしかなかった。


その情けなさに、正義の怒りはさらに燃え上がった。今度は美和に矛先を向けた。


「結婚の証をあんなに簡単に渡すなんてな!返されたら婚約は完全に破談じゃないか!」


美和も八つ当たりされ、苛立ちを隠さなかった。「美月が婚姻届まで見せてきたのよ?渡さないわけにいかない!」


「馬鹿者!」正義はテーブルを叩いた。



「美月はなんて勝手なやつだ!こそこそ他の男と結婚するなんて、霧島家を何だと思っている!やっぱり両親が早くに亡くなったせいで、誰も彼女を叱れなかったんだ!」


美和は皮肉げに笑い、どこか溜飲が下がったような口調で言い返した。「誰のせい?悪いのはあなたの息子よ。誠司が外で好き勝手してなければ、美月があんな気持ちになるわけない!」


何か思い出したように、鋭い視線で正義を睨みつけた。「誠司はあなたにそっくりよ。親の因果が子に報うってやつね。」


正義の顔色が険しくなった。「何を言ってる!」


「何を?あなたのこと、私が知らないとでも?」


「……!」正義の顔が青ざめる。


真美子は慌てて二人の間に割って入った。「お母さん、もうそのくらいにして。お父さんだって、もう昔のことは全部清算してるんだから。」


美和は目に涙を浮かべ、娘の手を振り払った。娘まで夫の味方をするとは思っていなかったのだ。


真美子はさらに美和をなだめ、話題を変えようとした。「お父さんが怒ってるのは、美月が他の人と結婚したからよ。それが一番の問題なの。」


美和はきっぱりと言い放った。「よくやったわよ!美月みたいな子、うちの息子になんかもったいないくらいだわ!」


険悪な空気がさらに高まり、真美子は誠司に目配せしながら、美和を宥めてその場から連れ出した。


「お母さん、ちょっと2階に行こう。新しいパックを買ったから、一緒に試してみる?気分転換しよう。」


リビングに残ったのは正義と誠司だけ。正義は冷たい声で言った。「書斎に来なさい。」


書斎で、正義は厳しい声を落とした。「美月が他の男と結婚したせいで、来月の結婚式は完全に中止だ。招待状まで配ったのに、霧島家の顔は丸つぶれだぞ。」


誠司はうなだれて立ち尽くした。「皆に中止の連絡をするしかない……」


「中止? 今や都内中が誠司が美月を裏切ったと噂してるんだ!霧島家の名誉はどうなる?」


父の焦った様子に、誠司の中には美月への憎しみが渦巻いていた。まさか彼女が自分への復讐のため、司と結婚するなんて——。


昔は自分の後ろをおとなしくついて回っていた美月が、黙って自分の支配から逃れるなんて、考えたこともなかった。


書斎は重苦しい沈黙に包まれた。しばらくして、正義は深くため息をついた。


「お前たちのせいで、外では霧島家が約束を破ったと言われている。最近頓挫した案件も多いが、まだわからないのか。」


誠司は慌てて声を上げた。「俺たちが裏切ったわけじゃない!俺は美月と結婚するつもりだったのに、向こうが先に他の男と結婚したんだ!」


「言い分はそうだが、お前が浮気していたのは事実だ。誰が見ても、美月のほうが被害者だと思うだろう。」


誠司は何も言えなくなった。父の言葉が痛いほど胸に突き刺さる。美月がどれだけ我慢してきたか、誰よりもよく知っていた。


正義の目が鋭くなった。「婚約破棄は決定だが、霧島家が悪者になるわけにはいかない。」


誠司は不思議そうに父を見上げた。


正義は声をひそめて言った。「外には美月が浮気して、婚約違反をしたということにしろ。お前は裏切られ、傷ついた可哀そうな男——そういうことにするんだ。」


誠司は驚き、言葉を失った。父が美月に多少なりとも情を持っていると思っていたが、今はっきりとわかった。父にとっては会社と家の面子が何よりも大事なのだ。


家の名誉のためなら、美月の名誉を地に落とすことすら厭わない——。


「でも……相手は九条司だぞ?」誠司は乾いた唇を舐めて言った。「そんなことを言ったら、あの男が美月を奪った男扱いされる。黙ってるわけがない。」


「美月の浮気だけを強調して、相手が誰かは一切言うな。」正義は冷静に続けた。「九条司が本気で美月を大事に思っているとでも?あり得ないだろう。」


「そんなはずはない!」誠司は即座に否定した。真美子と同じく、美月が何か策を使って司と結婚したのだと信じて疑っていなかった。九条司が、本気で美月のような平凡な娘を選ぶはずがない、と。


正義は冷酷な笑みを浮かべた。「二人がひっそりと入籍して、九条家からも何の動きもない。つまり、九条司にとって美月はどうでもいい存在ってことだ。こちらが名前を出さない限り、誰が司だなんて思うものか。美月が非難されても、九条司は関与しないだろう。」


誠司をじっと見つめ、断固とした口調で言った。「美月にすべての責任を押し付ける。これしか霧島家が生き残る道はない。——わかったな?」


誠司は目を伏せ、やがて静かにうなずいた。「……わかった。」


正義はさらに念を押した。


「しばらくは大人しくしてろ!清夏と一緒にいるところを見せびらかすな!お前は今、美月に裏切られた哀れな被害者だ。演じるなら徹底しろ、いいな?」


「……はい。」

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