人々が驚きのあまり言葉を失う中、誠司の頬にはすでに四回もの大きな平手打ちの痕跡が残っていた。元々傷があり、すでに腫れていた顔はさらにひどくなり、もはや原形をとどめていないほどだった。
美月は痺れた手を軽く振って、「悠に謝りなさい」と言った。
ようやく我に返った誠司は、頭の中が真っ白になり、怒りを抑えきれずに叫んだ。
「なぜ俺が謝らなきゃいけないんだ!?あいつがわざと酒をかけてきたんだぞ!それに清夏を殴ったのは悠だし、お前は俺を叩いた。どうして俺たちが謝らなきゃならないんだ!」
周囲の客たちは、誰もが美月の味方となり、一斉に誠司に謝罪を求める声を上げる。誠司は怒りで胸が張り裂けそうだった。人目がなければ、今すぐでもやり返してやりたかった。
だが、女性に手を上げれば自分の評判がさらに悪くなるだけだと分かっていた誠司は、言葉で反撃するしかなかった。
「美月、お前に俺が謝らなきゃならない理由なんてないだろ?」
誠司は声を荒げた。「お前こそ浮気して他の男と付き合い、俺と別れてないうちに新しい相手を見つけた。謝るべきなのはお前じゃないのか!」
美月は表情一つ変えず、むしろ興味深そうに問い返した。「へえ、私が浮気したって言うの?」
「そうだ!間違いない!」と誠司は声を張り上げた。
「他の男と関係があったと?」
「そうだ!」誠司は、まるで憂さを晴らすかのようにまくし立てた。「お前こそ裏切り者だ!付き合っている最中から他の男と関係を持って、勝手に別れを切り出した。最低だ!」
美月は黙って誠司の怒鳴り声を聞き流し、彼が息を切らすまで待ってから、ゆっくりと口を開いた。「それらの話、証拠はあるの?」
「証拠なんてない!」誠司は首を突き出し、堂々と答えた。「でも、お前が浮気したのは事実だ!」
「いいわ。」美月は手に持っていたスマホを見せ、「今の発言、全部録音してあるから。」
「……録音?何をするつもりだ?自分で聞き返して反省でもするのか?」
美月は呆れたように小さくため息をつき、「バカね」と一言。目を誠司から離して、今度は会場の客に向き直った。
「皆さん、今お聞きの通り、誠司さんは私に対して公然と侮辱し、デマを流しました。私はすでに弁護士に訴訟を依頼しております。本日ここにいらっしゃる皆様が証人となります。」
誠司はようやく事の重大さに気づき、慌てて声を上げた。「な、何を言っているんだ?」
美月は振り返り、「証拠が足りないと悩んでいたところに、ちょうどあなたが材料を提供してくれて助かったわ。ありがとう」と皮肉を込めて微笑んだ。
誠司は数秒間言葉を失い、ようやく信じられない様子で叫んだ。「美月!本気で俺を訴えるつもりか?そんな勇気があるわけがないだろ!」
彼の頭の中では、美月はいつも自分に逆らえない存在だという思い込みが根強く残っていた。
本気で自分に刃向かうことはないと信じて疑わなかった。
近くにいた清夏が小声で口を挟む。
「誠司の言うことも間違っていないわよね?本当に他の男と関係なかったの?」
美月は冷たい視線で清夏を一睨みし、「じゃあ、あなたも一緒に訴えることにするわ。訴状はまとめて送るから」と淡々と告げた。
清夏は黙り込み、何も言えなくなった。
周囲からの軽蔑の眼差しを感じ、誠司はこれ以上ここにいると恥の上塗りだと悟り、清夏の手を引いてその場を去ろうとした。
「ちょっと!ドレスの弁償がまだよ!」と、悠が後ろから声をかけた。
二人は無視して、足早に宴会場の出口へ向かっていった。
だが、数歩進んだところで、背が高い男性が静かに立ちはだかった。
拓海は柔らかな笑みを浮かべながらも、決して譲らない口調で言った。
「霧島さん、まだ話は終わっていないよ。ドレスの弁償も謝罪も済んでいない。これでは普段の霧島さんらしくないね?」
その笑顔は一見穏やかだが、内に秘めた威圧感が伝わってくる。
誠司は足を止めた。悠には強く出られても、拓海を敵に回すことはできない。
高杉家は霧島家よりもはるかに力があり、仕事上でも付き合いがある。誠司は拓海に対しては常に頭が上がらない。
「高杉さん……さっきのことは見ていたはずです。悠と美月が先に手を出してきて、俺たちは被害者なんです……」と、珍しく食い下がる誠司。
拓海の微笑みは変わらない。「手を出したことと、弁償することは別です。霧島さんほどの方なら、たかが50万円くらい、問題ないでしょう?」
その一言で、話の焦点が明確になった。
50万円は誠司にとって大した金額ではない。それでも払いたくなかった。払えば悠や美月に頭を下げたも同然だからだ。
しかも、そもそも九条家の宴会でのトラブルには自分は関係なかったはずだ。なぜ自分が責任を取らなければならないのかという思いが胸をよぎる。
誠司は心の中で清夏を責めた。なぜよりによって藤原家のお嬢様を怒らせたのか、と。
誠司が黙り込んでいると、拓海はさらに一歩踏み込む。
「そういえば、最近霧島家が東京湾の開発プロジェクトに全力で取り組んでいると聞きましたが……」
その言葉に、誠司は愕然とした表情を浮かべた。
確かにそのプロジェクトに全力を注いでいる。そして、九条グループおよび高杉家が主要な出資者であり、この拓海がその決定権を握っているのだ。
悠のドレス一着のために、この話を持ち出すとは――
誠司は全身から冷や汗が噴き出した。この一件でプロジェクトを逃せば、父親に何をされるか分からない。さっきまでの強気はすっかり消え失せた。
「分かりました、払います!全部誤解なんです。ドレス一着のことですし……」と、慌てて清夏に目配せし、早く支払うように促した。
清夏は涙目で誠司を見つめ、助けを求めるが、誠司は知らんふりをして急かす。
「清夏、早く悠に振込しろ!」
この場の空気と誠司の圧力に、清夏はもう断る余地もなく、唇をかみしめながらしぶしぶスマホを取り出し、悠に50万円を振り込んだ。
悠のもとに入金通知が届き、ようやく二人の退場が許された。
宴会場を後にした誠司と清夏は、互いに言葉もなく歩き続ける。
屈辱とお互いへの不満が重くのしかかり、会話する気にもなれなかった。
「ここで待ってろ。車を取ってくる」と誠司が低い声で告げる。
「……分かった」と、清夏は小さく答えた。
彼女が一人で入り口に立っていると、誠司が離れてからほんの一分も経たないうちに、薄暗い花壇の陰から人影が飛び出してきた。
驚きのあまり、清夏は思わず悲鳴を上げそうになる。
現れたのは、警備員の制服を着た若い男性だった。
彼は声をひそめて、「姉さん!」と急いで呼びかける。
清夏は相手を見て顔色を変え、慌てて彼の腕をつかむと花壇の陰に引きずり込んだ。
誠司の方を気にしながら、彼女は怯えた声で男の腕を強くつかみ、
「連絡はするなって言ったでしょ?どうしてここまで来たの?ここがどこだか分かってるの?誰かに見られたら全部終わりなのよ!」
と、震える声で言い放った。