美月は会社のビルを出たとき、ようやく自分の行動が少し衝動的だったことに気づいた。けれども、その快感は何にも代えがたいものだった。
ビルを出ると、携帯が鳴った。高橋からの電話だった。
「奥さま、こんにちは。」
その呼び方に、美月は一瞬身震いした。メッセージならまだしも、直接こう呼ばれるとどうしても落ち着かない。
「……こんにちは、高橋さん。」
「奥さま、お忙しいところ失礼します。新しいカードのご利用についてご案内したくてお電話しました。カードは一定の利用頻度が必要になっております。来月の入金前にご利用がない場合、システムの関係で利用制限がかかることがありますので、ご注意ください。」
高橋の声はいつも通り落ち着いていて、どこか事務的だ。
美月は少し驚いた。こういう制限があるなんてこと知らなかった。司はきっと自分がカードを使わないだろうと予想していたのだろう。
以前なら、彼のお金を使うことにためらいがあった。しかし、今はもう違う。
司との結婚で自分は確かに恩恵を受けているが、司もまた彼なりの見返りを得ている――おじいさんの回復、仕事の後押し、家族への対応、そして自分の協力。だから、彼のお金を使うのは当然のことだ。
「わかった。ありがとう、高橋さん。」美月はそう答えた。
電話を切ろうとしたタイミングで、高橋がもう一度口を開いた。
「奥さま、会社のご用事はもうお済みでしょうか?お引越しの件ですが、ご都合はいかがでしょうか。」
その言葉で美月は引っ越しのことを思い出した。
「もう終わった。ここ数日であれば大丈夫だと思うけど……」
言い終わる前に、高橋はすぐさま返事をした。
「それはよかったです。では、すぐにスタッフを連れてお伺いします。後ほどお会いしましょう!」
「自分でやるので……」と言いかけたが、すでに電話は切れていた。
美月はすぐにタクシーを呼び、マンションへ急いだ。到着すると、高橋はすでに三人のスタッフとともに玄関先で待っていた。
「奥さま」と高橋が軽く頭を下げて紹介した。「こちらは執事の田中です。会長の日常業務を担当しております。この二人は家事スタッフで、お荷物の整理をお手伝いします。」
「みなさん、ありがとうございます。」美月はそう挨拶した。
スタッフたちは手際よく作業を進め、1時間もかからず美月の荷物をすべてまとめ終えた。。部屋も隅々まで綺麗に片付けられ、まるで誰も住んでいなかったかのようだった。
美月は、たまにはこの部屋に戻ろうと思ったが、その様子を見て諦めざるを得なかった。
「奥さま、そろそろ出発しましょうか?」執事の田中は、四十代くらいの礼儀正しい男性だった。
「はい。」美月は、この場所にそれほど未練はなかった。
二台の車でマンションを出発し、ほどなくして司の家に到着した。
目の前にあるのは、シンプルな三階建ての白い洋館。一見ごく普通の邸宅に見えるが、敷地に入った瞬間、その広さに圧倒された。
広々とした庭には、専用の駐車スペースにプール、小さなコート、手入れの行き届いたガーデン、さらには小さな菜園まで完備されていた。
「奥さま、私はこれから会社に戻りますので、田中にご案内をお願いします。」高橋は任務を終え、辞去した。」
「ありがとう!」
田中が、美月を庭から丁寧に案内してくれた。広さを改めて実感する。
特に裏庭のブランコが気に入った。実家の小さな庭を思い出して、懐かしくなる。
「会長はここ数年、海外での仕事が中心だったため、この家に住むことはほとんどありませんでした。今年から日本での事業を本格的に始めたため、ようやくこちらに住まわれています。」田中が説明を続ける。「以前は私と掃除担当の張本さんだけでしたが、最近になってスタッフが増えました。もし何か不都合な点がございましたら、いつでもご連絡ください。」
美月は真剣にうなずいた。司の「妻」として、彼の生活環境を知っておく必要がある。必要な場面で「演じる」ためにも。
屋敷の中を一通り案内されているうちに、もうかなりの時間が経っていた。美月は疲れて寝室で少し休み、目を覚ますと外はすっかり暗くなっていた。
ちょうどその頃、スタッフの張本がノックしてきた。
「奥さま、夕食のご用意ができました。どうぞお召し上がりください。」
美月は少し間を置いてから、「ありがとう」と返事をした。
両親が健在だった頃は、こうして誰かに世話を焼かれることが当たり前だった。しかし家が傾いてからは長い間自力で生きてきたため、再びこうした生活に慣れるには少し時間がかかる。余計なことを気づかれないよう、控えめに振る舞おうと心に決める。
夕食は見事な品揃えで、まるでミシュランのレストランのようだった。田中によると、新しく一流のシェフを迎えたらしい。美月は食欲もあり、普段より多く食べてしまった。
午後、司から「今夜は帰らない」とメッセージが届いていたので、美月は内心ほっとした。だ慣れない場所で、彼と顔を合わせる気まずさがなくて助かった。
翌日、美月は時間があったので、星野夏のために作成した企画書を見返していた。案件は他の人に回されたが、自分のアイデアには納得していた。今後カラフルに戻らないとしても、デザインは自分の仕事の軸。完成させる意味がある。
午後には弁護士の西田翔太からの電話があり、法律事務所へ向かった。
――その頃、九条グループ会長室では――
司は書類を拓海に投げつけ、顔色は険しかった。
「どうしてこんな大事なことを、すぐに報告しなかった?」
拓海は腕を押さえながら、困った顔を浮かべた。
「司、俺、本当に知らなかったんだよ!誠司たちのグループには関わってないし、誠司が裏でそんなことしているなんて……。俺もつい最近、人づてに聞いただけで……」
「つい最近?いつの話だ?」
「……悠の誕生日の日、三日前。あの時ケンカになって初めて知って……その後忙しくて、つい忘れてて……」拓海の声はだんだん小さくなっていく。
司の目が鋭くなり、さらに書類を投げつけた。
「俺の妻が根も葉もない噂を流されているのに、知ってて黙っていたのか!」
拓海は内心泣きそうになりながら、「いや、そんなに大事なことじゃないと思って……誠司が嘘をついてるだけだし、訴えれば勝てるし、しかももう弁護士に相談してるって聞いたし…… 」
司は冷徹な声で言い切った。
「美月のことに関しては、どんな小さなことも見逃すな。」
そう言うと、拓海を無視して、すぐに内線を押した。
「高橋、すぐに法務部部長をこちらに呼んでくれ。」
声は冷たく、凍りつくようだった。