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第44話 微妙な距離

美月が法律事務所から帰宅すると、田中が「今夜は会長がご自宅で食事をされる」と伝えた。


それは、彼が今夜この家に泊まるということを意味していた。契約結婚とはいえ、同じ屋根の下で夜を過ごすとなると、美月はどこか落ち着かない気持ちになった。


夕食時、二人は向かい合って座っていた。

司がふと口を開く。「最近、誠司が君について妙な噂を広めているらしいな?」


数日が経ち、美月も冷静に向き合えるようになっていた。「あの人の言うことはデタラメだ。もう弁護士に依頼したので、大丈夫だと思うけれど…」


司は器用に魚の骨を取って、美月の皿にそっと置いた。「前にも言っただろう。誠司はどうかしている。君も、あいつのしたことをしっかり見極めた方がいい。」


彼はあえて誠司のことを美月の前で悪く言い、相手への未練を完全に断ち切らせようとしていた。


美月はしっかりとうなずき、毅然とした口調で言う。「今回は絶対に許さない。デマを流す人間には、それなりの代償を払ってもらわないと…」


「その通りだ。」司は口元にわずかな笑みを浮かべる。「九条グループの法務部にこの件を任せたらどうだ?彼らは経験もあるし、対応も早い。」


美月は箸を置き、司を見上げた。「そこまでしてもらわなくても大丈夫だよ。弁護士も証拠は十分だと言っていたし、勝てる見込みだから。」


「君は九条グループの奥様だ。」司は遮るようにきっぱりと言った。「グループの法務部が動くのは当然だ。第一、誠司の無礼は俺に対する挑戦でもある。簡単には済ませない。」


少しだけ譲歩して、「主導はしなくても、最後まで事情に関わらせてほしい」と続けた。


美月は、司がグループのメンツを守ろうとしていることを理解し、その力に頼れることにありがたさを感じた。


「わかった。証拠は弁護士が集めたものなので、主導は彼に任せてもいい?」

「いいだろう。」


会話が終わると、食卓には静けさが戻った。美月は食事を手早く終え、きちんと座って司を待った。


「待たなくていい。用事があるなら行っても構わない。」司はちらりと美月を見て言った。「俺は食事の後、まだ仕事がある。」


「じゃ、先に行くね。」美月はホッとしたような気持ちで、すぐに席を立ち、自分の部屋へ戻った。


美月が去った後、司は田中に尋ねた。「美月はこの二日間、ちゃんと仕事に行っていたか?」


「夫人はこの二日間、仕事に行かず、今日は法律事務所に行かれました。その後はずっとお部屋にこもっていらっしゃいます。」田中は正直に答えた。


司は眉をひそめた。平日なのに仕事に行っていない?カラフルで何かあったのか?確か、重要な案件があると言っていたはずだ。


彼は拓海に電話をかけた。「美月がカラフルで何かトラブルに巻き込まれていないか、さりげなく悠に聞いてみてくれ。」


拓海は渋々調べに行き、すぐに美月が仕事を一時停止した経緯をざっくりと伝えてきた。


「お前の嫁のこと、なんで俺が聞かなきゃいけないんだ?全然気にかけてもらえてないんじゃないの?」と拓海が茶化す。


「うるさい。」司はあっさり電話を切った。


食事を再開したものの、味気なさばかりが残った。結婚してやっと家に迎え入れたというのに、関係はルームメイトよりもよそよそしい。美月は困ったことがあっても、夫の自分に頼ろうとはしない。彼女の笑顔でさえ、上司や年長者に対するようなかしこまったものに感じられた。押し殺したような息苦しさが胸に溜まる。


その息苦しさが頂点に達したのは、深夜。司が水を飲もうと寝室を出たときだった。彼の部屋は二階東側で、美月の部屋とは二部屋離れている。


ドアを開けると、美月の部屋から漏れる灯りが見えた。次の瞬間、ドアがそっと閉まり、明かりも消えた――どうやら彼女も部屋を出ようとして、司の気配に気づき、すぐに引っ込んだらしい。


屋敷の中は静まりかえっている。司は小さくため息をつき、何も気づかないふりをしてゆっくり階下に下りていった。


リビングのソファに座ると、ちょうど二階の美月の部屋のドアが見えるところだった。案の定、ドアがわずかに開き、暗闇の中で誰かが階下を探るように覗いていた。彼がまだいるのに気づくと、すぐにドアが閉まった。


司は何事もないように視線を外した。


やれやれ、小動物みたいに警戒している。


わざとソファで数分ゆっくり水を飲んでいると、その間にも何度かドアがそっと開き、すぐに閉まるのを目にした。思わず苦笑がこぼれる。そんなに同じ空間にいるのが嫌なのか?喉が渇いても我慢するなんて。


彼はスマホを取り出し、拓海にメッセージを送った。【どうすれば彼女が心を開いてくれるんだ?】


拓海はすぐに返信してきた。【夜中に何言ってるんだよ。お前、頭おかしいんじゃないの?無理やり結婚して、体だけじゃなく心まで手に入れるつもりか?】


司は思わずスマホの画面を消し、拓海をブロックしたくなる衝動をこらえた。


けれど、その言葉は妙に心に残った。確かに美月は家にいるが、「体」はまだ遠い。これだけ近くにいるのだから、せめて「心」…と思うのは、当然のことかもしれない。


そう思うと、さっきまでの息苦しさがすっと消え、妙な高揚感が胸に湧いてきた。


彼は水の入ったコップをキッチンに戻し、二階の部屋へと戻る。ドアの内側に身を寄せ、耳を澄ませた。


しばらくすると、廊下にごく小さな足音が聞こえてきた。階段へ行くには、彼の部屋の前を通らなければならない。


そっとドアを細く開けてみる。すると、美月がパジャマの裾を持ち上げ、裸足のまま、つま先立ちで静かに階段を下りていくのが見えた。音を立てまいと必死に気をつけているのが伝わる。


白い足が黒い大理石の階段に映えて、妙に目を引いた。彼女が一歩ずつ階段を下りるたび、ピンク色のかかとが司の目に焼きつく。


美月は薄い白いナイトドレス一枚だけを身にまとっていた。


司の視線は自然と足首からすらりと伸びた脚、そのままナイトドレス越しに浮かぶ腰のラインへとたどる。ほの暗い明かりの中、そのシルエットは息を呑むほど美しかった。


思わず喉が鳴る。司は奥歯を噛みしめ、ほとんど音を立てずにドアを静かに閉める。


ドアにもたれかかりながら、こんな風にこっそり覗き見る自分を心の中で叱った。まるで変質者みたいじゃないか、と。


しばらくそのまま立ちつくし、やがて階下から水を注ぐ音と、美月がまるで泥棒のように気配を消して部屋へ戻る足音が聞こえると、深く息をつき、今度は浴室へと足を運んだ。

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