翌朝、美月はわざわざ早起きして、ダイニングテーブルにきちんと座り、司を待っていた。
彼が出かけた後、寝ているわけにはいかないと思った
司が階下に降りると、美月がきちんと座っているのが目に入った。
彼女は柔らかなクリームイエローのセーターにデニムを合わせ、穏やかな雰囲気を漂わせていた。
ふと、彼女が小さくあくびを隠すのを司は見逃さなかった。
「無理に早起きしなくてもいいのに。」
司は椅子を引いて腰を下ろし、何気なく尋ねた。
「今日は会社に急ぐの?」
美月は正直に答える。
「長い休みをもらっているから、最近は行っていないの。」
あの日、カラフルを出た後、嵐から電話があり、もう吉田のアシスタントをする必要はないと言われた。でも、それでも少し休みたかったのだ。
「仕事で何かあったの?」と司がさらに聞く。
「ううん、大したことじゃないよ……ちょっと気持ちを整理したくて。」
司はそれ以上聞かなかった。ただ軽くうなずいた。
食卓では、二人は他愛のない会話を交わしていた。
司が今日の予定を尋ねると、美月は「弁護士事務所に寄って、その後悠とお茶する予定」と答えた。
「わかった。田中に送り迎えさせよう。」
美月がふと田中に目を向けると、彼はにこやかに微笑み返してくれた。
けれど美月は、まだここが自分の家だと思えず、誰かに世話を焼かせることに気が引けていた。
「ここは交通の便もいいし、自分で電車で行くよ。ちょうど気分転換にもなるし」
司はしばらく考えた後、ふと尋ねた。
「免許は持ってる?」
「あるよ、大学の時に取った。」
「じゃあ、車で出かければいい。」
美月はちょうど卵焼きを口にしていたので、思わずむせそうになった。
この屋敷の駐車場には高級車が並んでいて、田中から「これでもまだ増やしていない方」と聞いたばかりだ。
こんな高級車、運転なんて絶対に無理だ。少しでも傷をつけたら、補償なんて到底できない――
美月が困った顔をすると、司はそれを察して言った。
「そっか、俺の考えが甘かった。あの車たちは確かに使いづらいな。好きなブランドがあれば、用意させるよ。」
「そんな、いいよ!免許はあるけど、ほとんど運転してないし……」
「大丈夫だ。」田中に目を向ける。「田中に付き添ってもらえばいい。いつも電車や地下鉄じゃ、周りに俺が妻に冷たくしてるって思われるかもしれないし。これからは、運転手を使うか、自分で運転するか、どちらかにして。」
しばらく悩んだ末、美月は折れた。「じゃあ……自分で運転する。でも、この前もらったお金で自分の車を買うから。」
「それはお小遣いだよ。車を買うのは、また別の話だ。」司はきっぱりと言った。
それから2時間も経たないうちに、高橋が新しい赤いフェラーリを持ってきてくれた。
美月は田中を助手席に乗せ、時速30キロで2キロほど走った。田中は終始「お上手です」と褒めてくれた。
夜になり、美月が部屋に戻ろうとしたとき、司に呼び止められた。
「もうすぐおじいさんの誕生日会だ。一緒に参加しないとな。」
「うん、わかってる。当日はちゃんと協力するから!」と美月は階段の途中で手を上げて返事をした。
司はソファにゆったりと腰を下ろし、階段の美月を見上げながら言う。
「でも、九条の家族はみんな鋭い目を持っている。少しでも不自然なところがあれば、すぐに見抜かれる。もし俺が結婚を遊び半分だと思われたり、おじいさんを騙しているなんて噂が立ったら……」
美月の顔から笑みが消え、不安そうに尋ねた。
「どうすれば、うまくやれるかな……?」
司はすぐには答えず、脚を組んだ。
その何気ない仕草すら、どこかモデルのように美しく見えた。
美月は内心、もったいないなと思った。
しばらく沈黙した後、司が口を開いた。
「事前に練習しておくのがいいかもしれない。」
「うん、やろう!」美月はすぐに階段を下りてきた。
てっきり、台本や受け答えのコツを教えてくれるのかと思ったのだが、司の言う「練習」は玄関に立つところから始まった。
ふたり並んで玄関に立ち、九条家本邸に入るシーンを再現した。
まるでドラマのワンシーンのようで、美月は少し戸惑った。
幸い、田中や使用人たちはあらかじめ席を外してくれているらしい。
ただ、ふたりとも部屋着とスリッパ姿で、なんとも間が抜けている。
「このまま入って行けばいいの?」美月は緊張気味に聞いた。
「うん。でも、今みたいに動きがぎこちないままだと、すぐにバレるよ。もう少し近づいて。」
「……わかった。」
美月が一歩近づくと、突然彼の大きな手が腰に回され、スッと引き寄せられた。
一瞬で司に密着し、心臓が激しく跳ね上がった。
見上げると、目の前に司の顔があり、お互いの呼吸まで感じる距離だった。
美月は思わず目を伏せ、心臓が高鳴るのを感じた。
司の手の温もりが、腰にじんわりと伝わってくる。
「集中して」と司の声が頭上から落ちてきた。
「……うん。」
司は美月の腰をしっかりと抱えたまま、玄関からリビングのソファまで何度か歩く練習をした。
「ダメだな。」司が歩みを止めて、少し眉をひそめた。
「まだまだぎこちない。このままだと、他人同士だってバレる。」
美月は乾いた唇をそっと舐める。
「じゃあ、どうすれば……?」
司の目に、かすかな悪戯っぽさがよぎる。
「本当の夫婦に見せるには、もっと親しみが必要だ。動きだけじゃなくて、もっと……心の距離を縮めないと。」
「どうやって?」
「まずは、ハグから始めようか。」と司は淡々と口にした。
美月は絶句した。
まだ司のことを完全に「夫」だとは思えず、どちらかといえば同居かパートナーのような感覚だ。
突然のハグの提案に、戸惑いが隠せない。
思わず一歩下がると、司も一歩近づいてくる。
さらに一歩、また一歩。
やがて、美月の背中は冷たい壁に当たり、逃げ場がなくなった。
司は少し首をかしげ、視線を合わせた。
その温かな息遣いが額にかかるほどの距離で、低く静かな声が響いた。
「協力してくれる?」