落ち着いた低い声が美月の耳元に響き、微かな痺れを感じさせた。彼女の耳は真っ赤に染まり、恥ずかしさを堪えて「……うん、いいよ」と答えた。
――ただの演技でしょ?ドラマで何度も見てきたし、これくらいはうまくやれるはず。ハグくらい、大したことない。
そう心の中で繰り返したが、次の瞬間、司が両腕を広げて待っていた。口元にはかすかな笑みを浮かべ、上半身を少しもたせ、まるで妻が飛び込んでくるのを待つ夫のように、余裕のある仕草を見せていた。
美月は意を決して目を閉じ、その胸に飛び込んだ。こんなにイケメンでスタイルも抜群、損はないはず――そう自分に言い聞かせながら。
両腕をゆるく彼の腰に回すと、やわらかなパジャマ越しに体温としっかりとした体つきが伝わってきた。思ったよりも彼の胸板は硬く、服越しでも鍛えられた筋肉がはっきりと感じられた。
彼の手がそっと美月の腰と肩に触れ、温かな手のひらが優しくなでる。「もっと力を抜いて」
「うん……」美月は自分がどれほど緊張しているか、よくわかった。彼とこんなに近づくのは初めてで、どうしても落ち着けない。
しかし、背中をなぞる彼の手が優しく、数分間抱き合っているうちに、美月の緊張も次第にほぐれていった。
彼の体温は心地よく、身にまとった香りも爽やかで、思わずその穏やかさに心が溶けそうになった。
だが、司は静かに言った。「まだ硬いな。このままだと、実家に帰っても使用人にバレるぞ。」
「……」美月は思わず腕に力を込めた。前よりは明らかにリラックスしているつもりなのに、まだダメって……。焦って彼の胸に顔を埋め、熱い吐息が彼のパジャマを温める。
すると、頭上から低い声が落ちてきた。「立っているとやりにくい。ソファに座ろう。」
内心少しムッとしつつも、三千万円の報酬を思い出して気を取り直す。今日はもう何でも言う通りにしよう、と決めて袖をまくり、ソファへ向かった。
――ハグくらい、絶対やりきってみせる!
司はすでにソファに腰を下ろしていた。美月は彼の前に立ち、腕を首に回して身をかがめる。「これでいい?」
司は彼女の腕を軽く叩いた。「まだ余裕あるよ。間に誰か座れそうだ。」
美月はバツが悪そうに腕を離した。腰を曲げて抱きついても、体はまだ遠く、立っているより不自然だった。気まずさを感じつつ、さらに体を近づけようとするが、足だけは頑なに動かない。
まるで体が上下でちぐはぐになったようで、太ももがすぐに痛くなった。「もう……今日はここまででいい?」
「ダメだ。」司は一切表情を変えず、淡々とした口調で言った。「時間がない。今のままじゃ、誰にも信用されない。」
「……」美月は言葉に詰まった。
――お祝いの席に出るだけで、まさか人前でここまでしないよね?
ぼんやり考えていると、司が自分の膝を軽く叩いた。「ここに座って。」
「……?」美月は一瞬、目を大きく見開き、彼の長い脚を見つめた。司の澄んだ目が冗談の気配もなく向けられ、思わずドキッとする。
――2000万円、2000万円……と心の中で繰り返し、美月は思い切って彼の膝にまたがった。再び首に腕を回し、顔を彼の肩に埋める。「これでいい?」
司は見えないところで口元をわずかに緩め、しっかりと彼女の腰を抱き寄せた。「うん、いいよ。」
美月はほっと息をついた。
司の声が耳元に落ちる。「親密さは、動作じゃなくて信頼から生まれることもある。もっと……俺を信じてみて」
「……うん。」美月は小さな声で答え、さらに彼に体を預けた。気がつけば、すっかり抱きしめられていた。
意外にも、こんなに密着しても気まずさはなかった。司の腕の中は温かく心地よく、次第に「練習」だということを忘れてしまい、ただ安心できる優しい抱擁に思えてきた。
力が抜け、彼の胸に顔を預けたまま、ゆっくりと呼吸を整える。
どれくらい経ったのだろう、美月はぼんやりと尋ねた。「……もういい?」
「もう少し。」司の声は、かすかに掠れ気味だった。
「うん……」美月は曖昧に返事をした。
さらに少し抱き合っているうちに、最初のリラックス感が薄れ、緊張が再び戻ってきた。司もそれに気づき、腰に添えた手の力を少し緩めた。
彼女の体からは、ほんのりみかんい、柔らかな体に包まれた衣服も心地よい。まるでふわふわとした雲を抱いているような感覚だった。
司はもっとこのままでいたいと思ったが、それではいけないと自制する。
やがて腕をほどき、「今日はここまで。続きはまた明日。」と言った。
「はい!」その声が終わるやいなや、美月は驚いたウサギのように彼の膝から飛び降り、「じゃ、先に上がるね!おやすみなさい!」と真っ赤な顔で階段を駆け上がった。
司は彼女の慌てた後ろ姿を見て、思わず苦笑する。
その夜、司は夢見心地で長い夜を過ごした。夢の中では、あの柔らかな抱擁がソファからベッドへと移り、美月をしっかりと抱きしめ、その体を腕の中で包み込んでいた――
夜半、暑さにうなされて目が覚めると、彼は無意識のうちにベッドから這い出し、キッチンで水を一気に飲み干した。階段の先は静まり返り、美月の部屋はしっかり閉じられている。水を飲み終え、階段を戻りながら、口元には微かな笑みが浮かんでいた。
――この子、本当に素直だな。
今日、彼女が抵抗しなかったのは……もしかして、もう一歩進んでもいいということだろうか?
そんな思いを抱えながら、翌日の夕食後、司は再び「親密さを高める練習をしよう」と提案した。
美月はすでに覚悟を決めていた。ハグくらい、2000万円のためならやるしかない。それに、司の腕の中は本当に心地よかった。
だが、今回は明らかに「レベルアップ」していた。
正面からのハグ、横からのハグ、抱きしめ方もさまざまで、最後にはほとんど彼にしがみつくような形になった。そして、気がつけば、美月はそのまま眠ってしまっていた。
目を覚ますと、壁の時計はすでに十時を回っていた。
――まさか、司の腕の中で三十分も寝てしまったなんて!
恥ずかしさでいっぱいになりながらも、司はその間、何も言わずに抱きしめたままでいてくれた。二人の姿は、まるで本当の恋人のようだった。
美月は慌てて頭を振り、もつれた髪を直しながら「きょ、今日はこれで……」と声をかけた。
「うん。」司は何事もなかったように腕を動かし、いつも通りの表情で「明日も続けよう。おじいさんに会う前に、体に覚えさせないとバレやすいからな」と言った。
「うん……」と答えつつ、美月は、九条家の複雑さを思い出し、司が慎重になるのも当然だと納得した。
「明日も……ハグの練習?」とつぶやきながら、家の人間関係やセリフの練習をした方がいいのではと思い始める。
しかし、司は彼女を一瞥し、落ち着いた声でこう告げた。
「明日はキスの練習だ。」