「キス」という言葉は、まるで雷が落ちたかのように美月をその場で固まらせた。
信じられない顔で司を見つめ、耳を疑うような思いだった。
抱きしめ合うだけでも限界だったのに、まさかキスなんて――そんな関係になったというの?
誠司と付き合っていた頃でさえ、二人の距離はハグ止まりだった。
それなのに、今度は司とキスの練習なんて、どういうこと?
けれど、司は何事もない顔で、誠実なまなざしを向けてきた。冗談めいたところは微塵もなかった。
「聞き間違いじゃないよ。明日、キスの練習だ。」
「わ、私…あなた…それって…」美月は顔を真っ赤にし、口を何度も開いたが、結局、一言も声に出せなかった。
司は淡々と説明した。「うちの従弟が、親に結婚を急かされて、仕方なくお金で彼女役を雇ったんだ。大晦日に家族全員が集まったけど、皆の目はごまかせなくて、すぐにバレた。結局、親は激怒して翌年の生活費を打ち切られたらしい。」
もちろん、これは司がその場しのぎで作った話だった。
美月は思わず聞き入ってしまった。もし自分たちの演技がバレたら、司も責められるのでは?けれど、どうしても頷けなかった。
ぼんやりしているうちに、司は立ち上がり、美月の横をすり抜けて二階へ向かった。「決まりだ。明日は早めに帰るよ。」そう言い残し、階段の角を曲がって姿を消した。
広い屋敷は再び静けさに包まれ、美月は呆然としたままリビングに立ち尽くしていた。足が痺れるまでそのままで、ようやく我に返って自室へと戻った。
ベッドに身を投げると、目を閉じても「キス」という言葉が頭の中で渦巻いて離れなかった。
そのせいか、夜もろくに眠れず、夢の中でも誰かとキスをして混乱していた。見知らぬ男にソファに押し倒され、体中が熱くなり、逃げようとしたが、相手はしつこく追いかけてきた。顔もはっきり見えず、周囲の景色もぼんやりとして、二人だけの世界にいるようだった。
夜明け近く、夢の男の顔が鮮明になり――それが司だと気づいた瞬間、美月は飛び起きた。動揺したまま頬を叩き、スマホを見るとすでに七時半。
「練習」の時間が刻一刻と近づいてくる。
頭を振って気持ちを落ち着かせようとした。
――ダメだ、逃げなきゃ!
ーー九条グループ会長室ーー
高橋がノックをして、部屋に入ってきた。「会長、こちらはカラフルスタジオに関する詳細な報告書です。」
高橋は美月が最近会社で経験したことを徹底的に調べ上げていた。彼女が全力を注いだ案件を奪われたこと、スタジオ内での対立、さらに悠さえ知らなかった細かい出来事まで、すべて記載されている。
司はページをめくるたびに、次第に表情が曇っていった。
彼女があんなに苦労していたとは――。
こんな会社、辞めてしまった方がいい。
でも、田中から聞いた話が頭をよぎった。美月は自宅で休んでいても、ずっとデザイン画を描き続けていたそうだ。彼女の仕事への情熱は、誰よりも強い。司は彼女をかごの中の鳥のように閉じ込めることはできなかった。
司は指先で報告書の「主要株主」の欄に目を止めた。「後藤悦郎……どこかで聞いた名前だな。」
「早慶会社の社長です。カラフルには投資していますが、あまり関心はないようです。早慶の本業はテクノロジー分野です。先週、会長に食事のお誘いがありましたが、多忙のためお断りしました。規模も小さいので、特別な予定はないようです。」
「そうか。」司は思い出したように言った。「じゃあ、時間を見つけてお茶でも。」
「かしこまりました。」
高橋が退出したあと、司は再び報告書を丁寧に読み返した。星野夏がオーダーしたジュエリーが、来月のイタリア映画祭のために準備されていることを知り、しばらく考えてから、電話をかけた。
「来月のイタリア映画祭、行くの?」
受話器の向こうから明るい女性の声。「もちろん行くわよ、なに?」
「ジュエリー、要るのか?」
「当たり前でしょ!レッドカーペットでみんなを圧倒したいの!ドレスもジュエリーも予約済みよ。XXブランドの超限定品、私が世界で一番乗り!」
「ジュエリーはキャンセルして、俺のを使ってくれよ。」
「は?いつからジュエリー業界に進出したんだ?」
「うちの妻がジュエリーデザイナーなんだ。彼女の作品を着けて映画祭に出てくれ。」
「……」電話の向こうが数秒沈黙した。「……司、頭おかしくなったの?」
「いや、本気だ。今度一緒に食事でもしよう。紹介したい。」
夜十時、屋敷にて。
司はリビングのソファで二時間も待っていたが、美月はまだ帰らなかった。
夕方の六時、美月からLINEが届いた。【悠と飲みに行ってくる。帰り遅くなりそう。】
司はすぐに彼女の意図を察した。そしてすぐに拓海を悠の元へ行かせて「確認」させた。
案の定、美月の方から悠を誘っていた。
司は呆れながらも笑ってしまった。今夜は逃げられても、明日はどうするつもりだ。いつまでも逃げ続けられるわけじゃない。
夕食後もリビングで待ち続け、十時を過ぎてさすがに我慢の限界がきた。再度拓海に電話をかけた。「どうにかして悠を帰らせて、美月を早く戻してくれ。」
拓海は電話口で文句を言いながら、「もう二人の茶番には付き合わない!」と宣言した。
だが、三十分後――玄関から物音が聞こえた。
田中が顔を覗かせた。「会長、奥様が帰宅されました。今、運転手と話しておられますので、もうすぐ中に入るかと。」
「うん。」司は素っ気なく返事をするが、視線はタブレットに向けたまま。しかし田中は、彼がソファにもたれていた体をすっと起こし、服のシワを何気なく直しているのを見逃さなかった。
やがて美月がドアを開けて入ってきた。車を降りる前に悠から送られてきた面白い動画を見ていて、まだその余韻で頬に笑みが残っている。
こんな遅い時間、司はもう寝ているか、「練習」の約束なんてすっかり忘れているだろう――そう思っていた。
だが、ふと顔を上げると、リビングの真ん中で彼の鋭い視線とぶつかった。
司は静かに彼女を見つめていた。
美月の笑顔は一瞬で凍りついた。
慌ててスマホをしまい、次の瞬間、こめかみを押さえながらふらふらと足を引きずり、ぼそぼそとつぶやく。
「うぅ…飲みすぎちゃって…もうダメ…頭がクラクラする…先に寝るね…おやすみ…」