目次
ブックマーク
応援する
81
コメント
シェア
通報

第48話 逃げても無駄だ

美月は、ふらふらとした足取りで階段を昇っていった。自分の演技力がここまであるなんて、生まれて初めて実感した。


急いで上がる勇気もなく、手すりをしっかり握りながら、一歩一歩ゆっくりと進んだ。背後から突き刺すような視線をひしひしと感じつつも、振り返ることもできず、逃げるように自分の部屋へ入り、ドアをしっかりとロックした。


リビングでは、司がしばらく閉じたドアをじっと見つめ、口元に皮肉な笑みを浮かべていた。


「張本、」と彼は声をかけた。

「美月に酔い覚ましのスープを持っていってくれ。」


「かしこまりました。」


まもなく、張本が湯気の立つスープを運んで美月の部屋の前にやってきた。

「奥さま、酔い覚ましのスープができました。今、お持ちしますね。」


中から美月のはっきりとした声が返ってきた。

「ありがとう、鍵はかかってないから、そのまま入ってきて。」


張本がドアを開けると、待っていたかのように司が自然にスープを受け取った。


部屋の中は薄暗く、ベッドサイドの小さなライトだけが灯っている。バスルームの明かりもついていて、ついさっきまで洗面していたようだ。


司が部屋に入ったとき、美月はベッドにうつ伏せになり、スマホで動画を見ていた。


足音が近づくと、美月は振り返りもせず、気だるそうに言った。

「張本、ベッドの横に置いておいて。あとで飲むから。」


しかし、返事がないので、美月が不思議に思って振り返ると――

そこには、ベッドから数歩離れた場所に司が立っており、スープを手に、じっとこちらを見ていた。


美月は驚いてスマホを顔に落としそうになる。


まさか、スープを持ってきたのが司だなんて思わなかった。もしかして、昨夜の「練習」を催促しに来たのでは、と慌てて目を閉じ、寝たふりをし始めた。


「うぅ……頭がくらくらする……眠い……」

そう呟きながら体を反転させ、顔を枕に埋めて司の視線を完全に遮った。


足音が近づき、ベッドサイドに何が軽く当たる音がした――スープが置かれたのだ。


しかし、去っていく気配はなかった。


一秒ごとに時間が引き延ばされるようで、美月は心の中で必死に叫んでいた。


(早く行ってほしい!)


彼女の知らないうちに、司の視線は寝返りでめくれた美月の服からちらりと見えた白い腰に注がれていた。


彼女が動けないのを承知で、見えないことをいいことに、その滑らかな肌をしばらく見つめていた。


やがて、小さな声で尋ねた。

「……もう寝たのか?」


ベッドの上の美月はぴくりとも反応しない。


司は口元に微かな笑みを浮かべ、そっと布団を引き上げて腰回りを隠し、静かに部屋を出ていった。


その夜は何事もなく朝を迎えた。


翌朝、美月は早く目を覚ました。昨夜の芝居が司に見抜かれていたことは分かっていたが、朝食の席での気まずさを思うと、また同じ方法で逃げようと決心した。


司より先にリビングを抜け出そうと、そっとバッグを持って階段を下りた。しかし、階段を下り切ると、ソファの隅に司が座ってニュースを見ているのが目に入った。


美月は思わずバッグを落としそうになった。

「……こんなに早いの?」


司は顔を上げた。

「こんな朝早く、どこに行くんだ?」


美月は唇を引き結びながら、

「悠が朝ごはん食べに行こうって……先に行くね……」

と答え、そっと玄関へ向かう。


もうすぐドアノブに手が届くというところで、司の声が響いた。

「昨日のこと、忘れてないよね?」


美月は足を止め、一瞬で考えを巡らせ、すぐに司のもとへ歩み寄り、そのまま彼の膝の上にちょこんと座った。腕を彼の首に回すのも、もうすっかり慣れてしまっていた。


キスはまだ苦手だけど、ハグならもうお手のものだ。何度かの練習で、彼の好みの抱き方も分かってきた。


わざと彼の胸元に身を寄せ、頬を首筋にすり寄せた。唇が耳たぶにほとんど触れそうな距離で、甘えた声で囁いた。

「その……もう少しだけ、心の準備をさせてくれない?今はちょっと……」


司は体を強張らせ、腕をどこに置いていいのか分からず、宙に浮かせたままだった。珍しいその様子に、美月は彼が怒ったのかと勘違いし、さらにしがみついて、曖昧に許しを請うように言った。

「今日は……これでいいの?」


彼女の温かな息遣いが耳元をかすめ、柔らかな感触が服越しに伝わった。司は喉を鳴らし、これ以上彼女に甘えられたら危ないと、ぐっと息をのみ込んだ。

「夜にまた話そう。」


「わかった!」

美月はまるで赦されたかのようにぱっと彼の膝から降り、心の中でガッツポーズをした。ひとまず今日も逃げ切れた、とほっとした。さっき彼に飛びついたとき、唇が首筋――いや、喉仏に触れたような気がする。


……別に、特別な感じはしなかったかもしれない?キスも、まあ似たようなものかな?


その時ちょうど張本が朝食の準備ができたことを知らせにやってきた。


肩の荷が下りた美月は、喜んでテーブルに着いた。昨夜はほとんど何も食べていなかったので、食欲も旺盛。トーストにジャムを塗って大きくかじったとき、ふと司がまだ来ていないことに気がついた。


思い返せば、ここ数日で司の前では肩の力が抜けている。いつからか、心の奥にあった距離感や警戒心が自然と薄れてきて、司をいつの間にか身内のように感じている自分がいた。この親しみは、あの練習よりも、ずっと自然なものだった。


なんだか、不思議な気持ちだった。


司が歩いてきて、美月の向かいに座り、牛乳を一口飲みながら彼女を見やった。

「悠のところに行かなくていいの?」


「……ゴホッ!」美月は慌てて咳き込んだ。「さ、さっき急に用事ができたって……」


司は眉を上げ、軽く笑ってみせた。

「ふーん、そう。」


朝食を終えた美月は、書斎にこもった。田中が整えてくれた仕事部屋でデザインに没頭し、気づけば一日があっという間に過ぎていた。


夜になり、司から夕食は要らないと言われ、美月は内心ほっとした。


だが、その安心も束の間、玄関で物音が聞こえた。食事はいらないと言っていたが、帰宅しないとは言っていなかった。


キッチンで水を飲んでいた美月は、こっそり抜け出そうとしたが、リビングを横切ると、ソファにくつろいでいる司と目が合ってしまった。彼は脚を組み、リラックスした様子だが、視線はしっかり美月を捉えている。


美月は足を止め、苦笑いを浮かべた。

「……今日はずいぶんお疲れだったでしょ?早く休んだら?」


司は右手をソファの肘掛けにかけ、人差し指で軽く合図を送った。

「おいで。」

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?