午後、美月が拓海に用意してもらった工房に戻ると、嵐から電話がかかってきた。
「美月、頼むから戻ってきて手伝ってよ!」
嵐の声には焦りがにじんでいた。「星野夏用のデザイン画、もう十回も直したのに、まだOKが出ないの!」
「映画祭ももうすぐだし、カラフルが納品できなかったら、違約金払わなきゃいけなくなるんだよ……」
美月は意外に思った。吉田の実力がそこまで低いとは思えないが、十回もダメ出しされるとは。
「吉田は私が口出しするのを嫌がるだろうし」と美月は淡々と答えた。「もし頼まれても、どうせ下働きさせたいだけでしょ」
「これはカラフルの案件だ、私が決めるの!」
嵐はため息混じりに言った。「こうしよう、給料四万円上げるから、とりあえず手伝いに戻ってきてくれない?」
美月は口座にある多額の小遣いを思い出し、思わず苦笑した。「遠慮しておきます」
嵐の声が一段と大きくなった。「こんなに長い間会社に来なくて、本当に辞めるつもりなの?」
「それはないよ」と美月。「ちゃんと年休を取ってるだけ。手続きも終わってるし」
「あなた……」
嵐は言葉に詰まった。
電話を切る前に美月は付け加えた。「そうだ、先輩、外で個人の仕事を受けても大丈夫?」
「いいけど、あなたはカラフルの社員だから、プロジェクトの成果はカラフル名義になるわよ」
嵐はすぐに強調し、少し鼻で笑いながら続けた。
「外でどんな大きな仕事が取れるって言うの?今をときめく女優のためにジュエリーを作れるなんて、他じゃできないでしょ?もし戻ってきてくれたら、星野夏が映画祭で私たちのジュエリーをつけて注目されたら、あなたも吉田もデザイナーとして名誉を分け合えるんだから、悪くない話でしょ?」
以前なら、こうした誘いに美月も少しは惹かれたかもしれない。
でも今となっては、ただの皮肉にしか聞こえなかった。
「先輩、今は本当に忙しいから、落ち着いたらまた考えるよ」
......
美月が家に帰り着いたのは、すでに夜の九時頃だった。
司に言われた「毎日のスキンシップ練習」も頭にあったが、ここ最近は仕事に没頭していて、帰ると疲れ切ってそのまま倒れ込むだけだった。司も忙しいらしく、夜遅くまで帰らない日もあった。お互い、何も言わずにその「練習」はしばらくお預けになっていた。
二日後、美月はついに早乙女のためにオーダージュエリーを完成させた。
出来上がった作品を手に、早乙女の所属事務所に直行する。
早乙女はそのジュエリーを見て一目で気に入り、思わず大絶賛した。「本当に素晴らしい!有名ブランドのオートクチュールより、ずっと素敵よ!大手ブランドのデザイナーのセンス、どこに行っちゃったのかしら…これを映画祭でつけて行ったら、絶対に主役級よ!国内外の女優にも負けないわ!」
そして美月を見つめて、少し残念そうに言った。「カラフルって知名度が低すぎて、あなたの才能が埋もれちゃってる。こんなにセンスがあるんだから、もっと良い環境があるはずよ」
クライアントが心から喜んでくれること、それが美月にとって何よりの報酬だった。
さらに二日が過ぎ、美月の年休も終わった。いろいろ考えた末、とりあえずカラフルに戻ることに決めた――今辞めても次の仕事なんてすぐには見つからないし、独立してアトリエを開くための資金もまだ足りない。
カラフルに出社した日は、社内は慌ただしく動き回っていた。受付の子がこっそり教えてくれたところによると、吉田が星野夏のデザイン画をなんと十八回も修正して、やっとOKが出たとのこと。最終決定が遅れ、製作にかける時間もほとんど残されていなかった。
今日は星野夏がイタリアに飛ぶ日で、午後二時のフライトに間に合わせるため、カラフルは午前十時にようやく完成品を用意できたばかり。
美月が会社に着くと、全員が走り回っていて、ジュエリーをそのまま空港に届ける準備をしていた。吉田は自ら梱包を手伝いながら監督しており、箱を閉じる瞬間、美月は遠目で中身のジュエリーをちらりと見た。
そのデザイン……どこかで見覚えがある。距離があってはっきりとは見えなかったので、気のせいだろうと思った。
だが、美月が見ていることに気付いた吉田は、まるで尻尾を踏まれた猫のような反応を見せた。
「パタン!」
吉田は勢いよく箱を閉じると、「パタン!」という音が響いた。「何見てるのよ!盗作でもするつもり?私のアイデアをパクる気?」
美月は呆れて笑いそうになった。「自分の実力、わかってる?私があなたのデザインなんか盗むわけないでしょ?」
「なっ……!」
吉田は痛いところを突かれて睨みつけ、隣の社員にきつい口調で言った。「急いで!すぐ空港に持って行って!星野夏のフライトに間に合わなかったら、違約金は自分で負担してもらうから!」
指名された社員は青ざめて、急いで箱を抱えて走り出した。
吉田は得意げな顔をして、美月の前に立った。
「ちゃんと納品したし、星野夏のフライトまでまだ時間があるから、絶対に間に合うわ!前に先輩があなたを呼び戻そうとした時、あなたは偉そうに断ったけど、私の失敗を楽しみにしてたんでしょ?」
美月は呆れたように言った。「あなた、病院に行った方がいいんじゃない?」
「なにを!」
美月は肩をすくめた。「あなたが仕事をこなせるかどうか、私には関係ないから」
吉田は鼻で笑い、まったく信じていない様子だった。美月が陰で自分の失敗を待っていると思い込んでいるのだろう。今はそれが叶わず、悔しさを押し殺しているのかもしれない。
吉田は口角を上げて言った。「あの時、もし戻ってきても、あなたは私のアシスタント止まりだったわよ!星野夏にもちゃんと言ってあるし、映画祭で活躍したらSNSで私を取り上げてもらうから!その時は、私が時の人になるのよ、あなたなんて足元にも及ばないわ!」
「子供じみてる」
美月は呆れ顔で相手にする気もなく、自分の席に戻った。
心の中では、十八回も直して、しかも慌てて作ったものの出来栄えがどれほどか、容易に想像がついていた。星野夏が映画祭で恥をかかないことを祈るばかりだ。
恐らく、有名になるという妄想に浸っているせいか、ここ数日吉田は美月に絡んでこなくなった。彼女にとって、美月はもはや相手にする価値もない存在になったようだ。
そんな感じで、日々は静かに過ぎていった。
やがて、九条家のおじいさんの八十歳の誕生日が近づいてきた。
夕食後、司が二階に上がろうとした美月を呼び止めた。
「最近忙しくて、練習が滞っちゃったね」
彼は美月を見つめ、譲らない口調で続けた。「明日は誕生日のお祝いだから、今夜……ちゃんと練習しよう」