揺れる水面越しに、美月はぼんやりと一つの影が素早く自分に向かってくるのを見た。その人影は一瞬の迷いもなく水を突き破り、真っ直ぐ彼女のもとへ近づいてきた。
司だった。
言葉にできない安堵感が胸の奥から湧き上がり、美月の張りつめていた神経は一気に緩み、意識はさらに朦朧としていった。
秋の水は骨まで冷たく、寒さが体の芯まで染み渡る。だがすぐに、彼女はあたたかくしっかりとした腕に包まれた。
司は美月をしっかりと抱き上げ、そのままリビングへと向かった。
リビングにいた来客たちは、突然の出来事に呆然とするばかり。事情を飲み込む間もなく、司の姿は美月を抱いたまま二階へと続く階段の角に消えていった。
使用人たちは慌てて厚手のタオルや毛布を手に、後を追った。
二階のゲストルームのドアは、司が足で閉めた。好奇の目や詮索をシャットアウトするかのように。
階下からはざわめきが聞こえてくる。
「……さっきまで元気だったのに、なんで急に落ちたの?」
「小早川さんが先に落ちたみたい。会長は助けに行ったんだよ」
「ちょっと注意不足すぎるわ……」
「会長の顔色、怖かったよ。みんな、余計なことは言わない方がいいね」
部屋の中で、司は全身ずぶ濡れで震えている美月をベッドに寝かせ、厚い布団でしっかりと包み込んだ。
白いワンピースは肌に張り付き、細い体の輪郭が浮かび上がる。冷たさはまだ消えない。
司は布団ごと美月を腕に抱き寄せて言った。「寒くないか?」
美月の体は激しく震え、返事もできない。目の焦点が合わず、目の前の人が誰なのかわからないようで、強く抱きしめられるほどにさらにもがき、唇からはかすれたうわごとが漏れる。
その様子に、司の胸はぎゅっと締めつけられた。
ちょうど先ほど書斎を出たばかりだった。おじいさんから美月との結婚について不満をぶつけられ、少し言い合いになった後で、心中は落ち着かないままだった。美月がリビングにいないことに気づき、外へ探しに出た。プールサイドに近づいたところで、彼女が水に落ちる瞬間を目撃した。
迷うことなく飛び込み、すぐに美月を抱き上げた。
その時の水の冷たさは、司自身でさえ身震いするほどだった。薄着の美月が耐えられるはずもない。
だが、美月が水にいた時間は長くなかった。普通ならここまで意識が混濁するはずがない。この反応……単なる溺水というより、凍りつくような恐怖に近い。
もしかして、水が怖いのか?
司は美月の冷たく青ざめた顔を両手で包み、低く語りかけた。「美月、俺を見て。なぜそんなに怖がってるんだ?」
美月は必死に首を振り、無意識のまま司の濡れたシャツの袖をしがみつき、まるでそれだけが頼りのようだった。
「だれかが……だれかが引っ張った……瑠奈が……」
かすれた声から、司は「瑠奈」という名だけなんとか聞き取ったが、詳細はわからない。
彼は美月の頬を軽く叩きながら、「しっかりして、ちゃんと話して」と促した。
だが美月の意識はさらに遠のき、言葉にならない。
どうやら誰かに押されたか、引き込まれたと訴えたかったのだろう。
司が駆けつけた時に見たのは、美月が水に落ちる瞬間だけだった。その時、もう一人の女性も一緒に落ちていたが、司は美月のことしか頭になく、もう一人のことは気にする余裕さえなかった。
その時、後から入ってきた使用人が小声で言った。「旦那様、まず奥様に乾いた服を着替えていただきましょう。このままだと体が冷えてしまいます」
「うん」司は首もとに張り付いた濡れたシャツの襟を引き、怒りと焦りを必死に抑えた。使用人が自分にも着替えを勧めてきたが、彼は無視した。
「彼女のことを頼む」そう言い残し、司は水気をまとったまま部屋を出ていった。
一階のリビング。
もう一人の溺れた人、瑠奈は人々に囲まれ、気遣われていた。明は慌ただしくタオルで瑠奈の髪を拭き、替えの服を探させている。
瑠奈は厚い毛布に包まれ、全身濡れてはいるが、明らかに美月より状態は良かった。寒さに震えてはいたが、意識ははっきりしている。
二人の違いが、ますます美月の異常さを際立たせていた。
司が階段を下りてくると、ちょうど皆が瑠奈に事情を聞いていた。
瑠奈は毛布に身を縮め、怯えと悲しみを絶妙に混ぜた声で語り始めた。
「美月とは高校の同級生なんです。さっき、久しぶりに話したくて追いかけていたら、プールサイドが滑りやすくて……彼女が足を滑らせてしまって……慌てて掴まろうとしたとき、私も一緒に落ちちゃって……」
もちろん、本当は自分が美月を引きずり落としたなんて言えるはずもなかった。落ちる直前、彼女を強く引っぱったのはわざとだった。
蕾から、高校時代の事件以来、美月が深い水に強い恐怖を抱いていると聞かされていた。もし美月にいじめの過去を暴かれれば困る。だから、水に落として怯えさせ、声を出せなくさせたかった。
実際、落ちる瞬間、瑠奈は自分だけなら踏みとどまれたが、あえて美月を道連れにした。
水中でも、美月の様子がおかしいとすぐ気づいた。ほとんど抵抗できていなかった。
今の美月なら、はっきりと自分を責めることはできないはずだ。
だからこそ、真実は自分の言葉次第。
瑠奈はあらかじめ用意していた通りに、すべての責任を美月になすりつけた。
「きっと、すごく怖かったんだと思います。落ちるときに本能的に近くの私にしがみついて……それで私も一緒に……。でも仕方ないですよね」
と、わざとらしく寛大なふりをして付け加えた。
その言葉に、周囲からは同情の声があがる。
「気の毒だね、とにかく着替えて温まらないと」
「そうだよ、早く体を拭いて」
明は瑠奈の手を引いて、二階のゲストルームに連れて行こうとした。
「待ちなさい」
冷たい声が響く。
司が険しい表情で近づいてきた。全身ずぶ濡れで、髪先から水滴が垂れ、彼の周囲だけ空気が張り詰めている。
「美月が君を引っ張ったと言ったのか?」司は鋭い目で瑠奈を見つめた。
瑠奈はその視線に怯えながらも、必死に平静を装って答えた。
「……そ、そうです。でも彼女もパニックだったし、私は大丈夫です。ほら、怪我もないし……」
美月が現れないのを見て、瑠奈は自分の嘘が通るとますます確信していた。
だが、司の表情はさらに冷たくなった。
「君は嘘をついている。落とされたのは君じゃない、美月を引きずり落としたのは君だ」
司の声は断固としていた。
瑠奈は一瞬息を呑み、手のひらに爪が食い込むほど強く握りしめた。
「違います!私がそんなことするわけ……九条さん、信じてください!」
その一瞬の動揺を、司は見逃さなかった。もしこれまで疑念だけだったとしても、今や確信へと変わった。
明は慌てて小声で仲裁に入る。
「兄さん、瑠奈は小早川さん……お義姉さんに巻き込まれただけで、誰も責めるつもりはないよ。みんな無事だったし、まずは着替えさせてあげよう?」
だが、司は二人の前に立ちはだかり、微動だにしなかった。
「はっきりするまで、誰もここを動くな」
瑠奈は焦りながら訴える。
「もう全部話したはずです、他に何を……」
司はまったく彼女の言葉を信用しなかった。今や、美月本人の証言以外、誰の話にも耳を貸すつもりはない。だが美月の状態は不明で、現場には監視カメラもなく、すぐには瑠奈の嘘を暴く手立てがなかった。
司が黙って対策を考えていると、リビングの隅から澄んだ幼い声が、少し焦りを帯びて響いた。
「お兄ちゃん!さっき何があったか、私知ってるよ!」