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第59話 水が怖い

使用人の言葉が終わらないうちに、司はすでに踵を返し、階下の混乱を後ろにして駆け上がっていった。


二階の寝室では、美月が乾いたシルクのパジャマに着替え、分厚い布団にしっかりと包まれていた。彼女は目を固く閉じ、さっきまで冷水に浸かって青白かった頬が、今は真っ赤に火照り、まるで熱気が立ちのぼるかのようだった。


追いかけてきた使用人が慌てて説明した。「奥様、少し落ち着いたと思ったら急に熱が出て、あっという間に体温が四十度まで上がったんです……」


司は美月の熱い頬に手のひらを当て、その異常な熱さに胸が締めつけられた。ためらうことなく、布団ごと美月をしっかりと抱き上げた。


「病院へ行くぞ!」


美月を抱いたまま急いで階段を降りると、リビングにいた人々はあっけにとられたままだったが、司は一気にリビングを横切り、姿を消した。


運転手はすでに最も出やすい場所に車を停めており、車はすぐさま走り出した。


リビングに残った人々は顔を見合わせ、小声でざわざわと話し始めた。


「こんなふうに行っちゃったの?これからどうするの?」


「今日はお父様の八十歳の誕生日よ?九条グループの当主なんだから、パーティは……」


「お父様はいらっしゃるんだから、祝いの席は続けないと……」


瑠奈は相変わらずその場に膝をついたままで、誰もどうしたらいいのか分からずにいた。


混乱の中、九条家のおじいさんが杖をつきながら二階の書斎から現れ、杖で階段をドンと叩く音が響いた。


「騒がしいぞ、何をしている!」その声には威厳があった。


今はもう九条グループの経営には関わっていないものの、長年の威光は衰えることなく、その顔には苛立ちがにじんでいた。


「前回のパーティもめちゃくちゃだったのに、せっかく今日はみんな集まったというのに、司のやつ、また勝手に出て行ったのか!私のことなど眼中にないのか!」


下で棒付きキャンディを舐めていた文博が小声で呟いた。「だって原因は明の彼女のせいだろ……。兄貴だって、お義姉さんを放っておいて一緒にご飯なんて食べられないよ……」


おじいさんの顔はさらに険しくなった。


司のことを責められないとわかってはいても、長男にここまで冷たく背を向けられて、やはり面白くはなかった。


ふと視線がリビングの真ん中で膝をついている瑠奈に向く。嫌悪が露わになった。「こんな得体の知れない人間を本家に連れてくるとは、ここを市場か何かと勘違いしてるのか?」


この言葉に、明の家族は一気に青ざめる。連れてきたのは自分たちで、問題が起きた以上、責任を取らざるを得なかった。


明の母親は覚悟を決めて瑠奈の腕をぐいっと引っ張った。「私たちも彼女に騙されたのよ!すぐに追い出します。もうこれっきり、九条家とは関係ありません!さっさと出て行きなさい、これ以上恥をかかせないで!」


瑠奈はさっき自分の頬を何度も叩いたせいで、顔は腫れ上がり、血がにじんでいた。せっかく整えた化粧も髪も乱れ、濡れた服はしわだらけで体に張り付いていた。完全に力が抜け、羞恥心すら鈍くなっていた。引きずり起こされても、足元はふらつき、まるで骨がないかのようだった。


階上のおじいさんはその様子を見ると、再び杖で床をドンと叩き、明たちに怒鳴った。「お前たちも一緒に出ていけ!」


家族三人は顔を見合わせ、おじいさんが本気で怒っていると悟り、慌てて呆然とした瑠奈を連れて、すごすごと家を後にした。


「もういい!」おじいさんは大きくため息をつき、「それぞれやることをやりなさい。頭が痛い、私は部屋で休む。」


……


病院へ向かう車の中で、司は布団にくるまった美月をしっかりと抱きしめていた。


布団で包んでも、彼女の体は小刻みに震えていた。


「もっと飛ばせ!」司は低い声で運転手を急かした。


美月の熱い手を握り、胸が締めつけられるほど苦しかった。プールに落ちたぐらいで、こんな高熱になるはずがない。きっと他に理由がある。


彼は美月の頬をそっとなで、静かに問いかけた。「美月、水が怖いか?」


彼女は意識が朦朧としながらも、完全には意識を失っていなかった。「こわい……こわいの……」


司の目が暗くなり、さらに強く彼女を抱きしめた。「なぜ、水が怖いんだ?」


しばらくして、美月はゆっくりと答えた。「昔……おぼれたことがあるから……」


彼女の声はかすかで、熱のせいか言葉を絞り出すようだった。


司はさらに優しく尋ねる。「いつのこと?」


「うん……高校のとき……」


美月は目を閉じたまま、司の温かな胸元に無意識に体を寄せる。高熱の身体からは熱が布団越しにも伝わってきた。


司はその体温に心が痛み、感情を抑えながらさらに聞き出した。「そのとき、瑠奈が関わっていたのか?」


美月は「うん……関係ある……」と答えた。


司の表情は氷のように冷たくなった。瑠奈が美月の昔の同級生だと名乗った時のことを思い出す。やはり学生時代からの因縁だったのか。「彼女が君を水に突き落としたのか?」


「違うの……」美月は目を開けようとしながら、かすかな記憶をたどる。もし正気なら、絶対に口にしなかったはずの過去だった。


だが、高熱で体がふわふわし、心の奥に押し込めていた感情が溢れ出しそうだった。


司が根気よく優しく声をかけ続ける中で、美月は途切れ途切れに昔のことを話し始めた。


「彼女が私を、校外の人と一緒に閉じ込めて……すごく怖かった。でもその部屋の裏窓が開いてて、その人が来る前に思い切り窓から飛び出したの。下は川で、私は泳げなくて……溺れそうになった……」彼女の声はかすかで、司が顔を近づけてやっと聞き取れるほどだった。


瑠奈が美月に酒を飲ませ、外部の不良に渡そうとした――その事実を聞いただけで、司の怒りは頂点に達し、奥歯を噛みしめ、体が震えるほどだった。今すぐ引き返して瑠奈を叩きのめしたいほどだった。


いつの間にか、美月は目を開いていた。少し意識がはっきりしたようだった。司の目に浮かぶ怒りと暗い感情を見ても、彼女は不思議と怖くなかった。


美月は布団の中から手を伸ばし、そっと司の手を握った。


「怒ってるの?」何を話したかははっきり覚えていないが、司の顔色から良い話ではなかったと察した。


司は彼女の手をぎゅっと握り返し、かすれ声で言った。「違う、君がつらかったのが悔しいだけだ。」


「そっか……」美月はその言葉を反芻し、熱のせいもあって自分の高熱のことだと思い、「ただの熱だから……大丈夫。前は……いつもひとりで病院に行ってたけど……今は君が一緒にいてくれるから……それだけで十分だよ……」


司は言葉を詰まらせ、目頭が熱くなった。今は何もできない。ただ彼女を強く抱きしめて、自分の力を少しでも分けてやりたかった。


「司……」美月は小さく彼の名を呼び、かすかに唇を曲げて微笑んだ。


「君がいてくれて、本当によかった……」

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