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第73話 心が揺れないようにしよう

美月は、自分が何か悪いことをしたような気がしていた。だからこそ、司と一緒に食事をするのも当然のことのように感じていた。


車内は静まり返っていて、運転手も高橋もすでに降りていた。


「このお弁当、張本さんが作ってくれたの?」と美月がたずねた。


司は何気なく「うん」と答えた。


「わざわざ持ってきてくれなくてもよかったのに。この辺りは食べるところも多いし、こっちに来るのも遠回りでしょ」と美月は言った。


彼女には、司がわざわざ食事を持ってきた理由がどうしても理解できなかった。その行動は、どこか不自然に思えた。


司自身も、こうした自分の行動が疑われても仕方ないと感じていた。ただ、さっき美月と西田が一緒に歩いているのを見て、何か理由をつけて自分の存在をアピールしたくなっただけだった。


「たまたまこっちに用事があったから、ついでに持ってきただけだよ」と司は説明した。


「そう……」美月はお弁当箱を見つめた。「じゃあ、早く食べて」


「うん」司がお弁当を開けると、油っぽい匂いがふわっと広がり、二人とも思わず顔をしかめた。


「これ、本当に張本さんの手作り?」と美月が疑わしげに聞いた。


司も、さっき立ち寄ったばかりのあの店の料理がこんなに脂っこいとは思っていなかった。しかし、一つの嘘をつけば、それを隠すためにさらに嘘を重ねなければならない。


「うん、張本さんが今日はちょっと違う味付けにしてみたんだって」と司は無理やり答えた。


「張本さんって料理上手だよね。早く食べちゃって」と美月は言うが、彼女はそっと体を横にずらして、匂いが服につかないようにしていた。


司はしばらく箸を動かせずにいたが、美月の視線が気になり、仕方なく一口食べてみた。しかし、あまりの味に思わず吐き出しそうになったが、疑われないように無理やり飲み込んだ。


静かな車内には、司が食事をする音だけが響いていた。


半分ほど食べたところで、美月がスマホを見て「もうすぐ仕事の時間だから、先に行くね」と言った。


「待って」司はティッシュで口元を拭いた。


「どうしたの?」と美月が聞いた。


司はじっと美月の目を見つめて言った。「せっかく苦労して持ってきたのに、何かお礼があってもいいんじゃない?」


「お礼って?」


司は少し考え込むふりをしてから「キスして」と言った。


「え?」美月は司の顔をじっと見たが、どうやら冗談ではないらしい。


彼女が動かないのを見て、司はわざと大きくため息をついた。「はあ……せっかくご飯を持ってきたのに、君は他の男とご飯食べて、俺はこんな脂っこいお弁当しか食べられなくて……」


「別に持ってきてって頼んでないよ」と美月は小さな声で言った。


司はまたため息をついて「嫌ならいいよ」と呟いた。


司の口調には妙な寂しさが滲んでいて、美月はそれが彼らしくないと感じた。


車内は薄暗く、黒いスモークガラスが外のまぶしい光を遮っていた。司はじっと美月を見つめていて、美月は車のドアに手をかけながら汗ばむのを感じた。


(ここまで来たんだし、少しくらいなら……)と美月は思い、短くためらった後、司の頬に素早くキスしようと顔を近づけた。だが、その瞬間、司がちょうど顔を向けてきて、美月の唇は彼の口元に触れてしまった。


美月は思わず目を見開き、すぐに顔を離した。司の目には、どこかいたずらっぽい光が宿っていた——わざとだったのだ、と彼女は気付いた。


美月は顔を赤らめ、そっけなく「じゃあ、行ってくる」とだけ言い残し、慌てて車を降りた。


彼女が逃げるように去る背中を見て、司は満足げに微笑んだ。目の前のテーブルを片付け、まずいお弁当をそのままゴミ箱に捨てた。


……


夜、美月がソファでテレビを見ていると、テーブルの上に白い箱が置かれているのに気付いた。


ちょうどその時、司が後ろからやってきて「君に。開けてみて」と声をかけた。


「私に?」美月が身を乗り出してふたを開けると、中には二つの指輪が入っていた。


司は美月の前に立った。「そう、君に」


今日、西田が美月を独身だと勘違いしたことで、司は改めて思い出した。二人は籍を入れたものの、結婚式も挙げていなければ指輪も用意していなかった。もし美月が指輪をしていれば、余計な男がちょっかいを出すこともないだろう。


司は午後、わざわざこの指輪を選びに行ったのだ。プラチナのリングには小さなダイヤが一周あしらわれていて、内側には二人のイニシャルが刻まれていた。


シンプルで控えめなデザインは、美月の好みに合っていた。


司は箱から指輪を取り出し、美月の前で自然な仕草でひざまずいた。それはまるで本当にプロポーズしているかのようだった。


指輪を手に取った司に対し、美月は手を差し出さなかった。


「どうして指輪をくれるの?」と彼女は問いかけた。


結婚した時、美月は母親の指輪を司に渡し、司からはネックレスをもらって、お互いに記念品を交換した。だから、改めて正式な指輪はいらないと思っていた。


しかも、ペアリングには特別な意味がある。簡単に受け取る決心がつかず、司の理由を知りたかった。


司は本音を隠して「この前本家に帰ったとき、君が指輪をしていないって陰でいろいろ言われているのを聞いた。俺の妻には嫌な思いをさせたくないから」と答えた。


その理由を聞いて、美月は納得した。しかし、指輪をすれば周囲に「既婚」と伝えることになる。一年後には離婚する予定なのに、その時どう説明すればいいのかと迷った。


だが、美月が迷っている間に、司は彼女の手を取って指輪をはめてしまった。ためらう暇も拒否する間もなかった。


続けて、司は自分の指輪を美月に手渡した。「こっちも、つけて」


薄暗いリビングの暖かい光が司の顔をやわらかく照らしていた。ラフな部屋着姿の彼はリラックスして見え、膝をついたまま、美月をまっすぐ見つめていた。


その瞬間、美月の不安はどうでもよくなった。彼女は指輪を受け取り、司の薬指にはめてあげた。


指輪をはめ終えると、司は美月の手をぎゅっと握った。「一度つけたら、外しちゃだめだからね」


「……うん」


その夜、美月はずっと夢の中にいるような気分だった。その現実感のなさは、寝る前になっても消えなかった。ベッドに横たわり、右手を持ち上げて薬指の指輪を見つめた。指の隙間から、司が自分の前で跪いていた姿がよみがえってくる。


心が動かないはずがなかった。


美月は指輪をそっとなで、スマホでカレンダーを確認した。司と結婚してからもう一ヶ月以上。あと十ヶ月で一年が経ち、その時には離婚することになっている。


それが、二人に決められた結末のように思えた。


美月は静かに目を閉じ、心の中でそっと言い聞かせた——心が揺れないようにしよう、と。

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