ここ数日、カラフルの社内には張り詰めた空気が漂っていた。
「新しい社長がいつ視察に来てもおかしくないらしい。絶対に失敗できないね」
「嵐さん、今朝また強調してたよ。デスクは完璧にきれいにして、書類もきちんと分類しておくことって」
同僚たちはひそひそと話しながらも慎重な様子で、みんな自分のデスクを何度も拭き直し、キーボードの隙間まで綿棒できれいにしていた。
美月がオフィスに入ると、ちょうど誰かがアルコールシートで植物の葉を拭いているのを目にした。その真剣な表情は、まるで精密機械を扱っているかのようだった。
バッグを置いたとたん、何人かの視線がそっと自分に向けられているのを感じた。どこか同情とためらいが混じった目だった。
「私、顔に何かついてる?」美月は隣の里奈に聞いた。彼女はこのオフィスで数少ない、美月と気軽に話せる存在だ。
里奈は慌てて首を横に振り、嵐のオフィスの方をちらりと見てから、声を落として言った。「美月、あまり気にしないで。さっき吉田が嵐さんの部屋から出てきて、コンテストの出場枠はもう彼女に決まったって」
マウスを握る美月の指が止まった。「この前は社内で競争するって話じゃなかった? まだ作品も出してないのに、どうしてもう決まったの?」
「誰にもわからないよ」里奈はため息をついた。「さっきコーヒー持ってオフィスを一周して、『実力だけじゃダメよ、柔軟じゃなきゃ』って大きな声で言ってた」
美月が吉田のデスクに目をやると、そこは空席だった。隣の小さな部屋から笑い声がうっすら聞こえてきて、どうやらそっちで自慢しているらしい。
美月は机を指でトントンと叩いた。吉田は最近パクリ疑惑でネット中から非難され、クビになってもおかしくなかったのに、嵐が特別に許して残した。その吉田が、唯一の大会出場枠をもらえるなんて――。
「嵐さんに聞いてくる」美月が立ち上がると、里奈は止めたそうにしたが結局言葉にできず、小さく「無理しないでね…」とだけ背中に声をかけた。
嵐はまるで美月が来るのを予想していたかのように、デスク前の椅子をあらかじめ引き出していた。「座って。ちょうどこの話をしようと思ってた」
「どうして吉田なんですか?」美月はストレートに聞いた。「彼女の実力じゃ入賞できません。枠の無駄です」
「落ち着いて」嵐は美月にぬるめの水を注ぎ、コップの底が机に当たって軽い音を立てた。「今、主催者にもう一枠出せないか交渉してる。もし取れたら、必ずあなたに回すから」
その言い方があまりにも適当で、美月は眉をひそめた。「嵐さん、私がこの前SNS投稿を手伝わなかったから怒ってるんですか?」
「そんなことないよ」嵐は微笑み、指で机の端をなぞった。「そこまで根に持たない。でも、今の会社の状況は厳しいんだ。星野夏への賠償金、吉田が自腹で4800万円払ってくれて、この前また4800万円持ってきた。3200万円は会社の赤字、1600万円は投資ってことで、その見返りに枠を渡すことにした」
「つまり、枠はお金で買えるってことですか?」美月は立ち上がり、椅子の脚が床を引っかく音が響いた。「どうせ勝てないのに、カラフルの評判をもっと落とすだけです!」
「勝つかどうか、そんなに大事?」嵐の表情は冷たくなった。「相手は世界中のデザイナーが集まる国際大会だよ。うちみたいな小さなスタジオが勝てるわけない。出るだけで十分。でも、彼女のお金があれば今期は乗り切れる。それが現実だよ」
身を乗り出し、美月の目を見て言った。「あなたが出ても、必ず賞を獲れる? 違うなら、吉田と何が違うの? 私は管理職。見るのは実力じゃなくて現金なの」
美月は指先を真っ白になるほど握りしめた。小さなスタジオが生き残るのは大変だと分かっていたけれど、嵐がここまで割り切るとは思わなかった――お金のために、会社の最後のプライドまで手放すなんて。
「話はこれで終わり」嵐は椅子にもたれ、事務的な口調で言った。「会社の決定だ。不満があるなら気持ちを整理してきて。他の人に迷惑かけないで」
オフィスを出ると、後ろからパラパラと書類をめくる乾いた音が聞こえた。美月はデスクに戻らず、廊下の窓辺に立って下の車の流れをしばらく眺めていた。――たとえ会社の枠がなくても、個人名義でエントリーすることはできる。
大会の公式サイトを開いていると、コーヒーの香りが近づいてきた。吉田がカップを手に美月のデスクにやって来て、わざとマグカップを机の上に置いた。茶色い液体がカップの中で揺れる。
「まだ諦めてないの?」彼女はこの前までの疲れ切った様子が嘘のように、完璧なメイクで現れた。「もう無駄だよ。嵐さんから全部聞いたもん。あなたが行っても意味ないよ」
美月は顔を上げずに、「何の用?」
「ちょっと忠告に来ただけ」吉田は隣の椅子を引いて腰かけ、上から見下ろすように言った。「どれだけ頑張ってデザインしても、結局私がお金を出した方が得だったってこと。私は9600万円払ってこの枠を手に入れたんだよ。あなた、一生かかっても貯められないでしょ?」
彼女は爪で画面をコンコンと叩く。「個人応募? 無駄だね。会社の後ろ盾も知名度もない人なんて、一次審査すら通らないよ。前に早乙女薇薇のおかげでちょっと話題になったけど、今は誰も覚えてない。あなたみたいな無名じゃ、もう終わり」
美月はようやく顔を上げ、静かに見つめて言った。「お金で枠は買えても、賞は買えるの?」
「買えるに決まってるでしょ」吉田はますます得意げになり、声を少し大きくした。「もう代筆デザイナーも手配済み。優秀賞くらいは取れるよ。それで国際レベルのデザイナーって宣伝すればいい。あなたは?どれだけ頑張っても、見てもらえなきゃ意味がないでしょ」
オフィスのざわめきが止み、みんながこっそり聞き耳を立てていた。
吉田はそんな視線を楽しむように、美月に顔を寄せて小声で言った。「無駄な努力はやめなよ。この業界で大事なのはコネとお金。あなたじゃ一生私に勝てない。早く現実を見なよ、その方が楽になるから」
そう言って背筋を伸ばし、美月が泣きながら飛び出すのを待っていた――学生時代から、彼女はこうやって相手を泣かせてきたのだ。
だが、美月はただ静かに彼女を見つめ、ふっと笑った。「そんなに一生懸命言って、私の考えを変えられると思っているの? 残念だけど、私はそんなに簡単じゃないよ」