後藤は司の言葉に頭が真っ白になり、しどろもどろに尋ねた。「九条さん、それは……どういう意味ですか?」
司は美月の手を自分の前に引き寄せ、指先で彼女の指輪にそっと触れながら、淡々としたが、芯のある口調で言った。「さっき誰かが、俺の妻はおじさんと結婚したと言っていた。つまり、その『おじさん』って、俺のことだよね?」
「えぇ?!奥様?」
後藤の視線は一瞬で美月に釘付けになり、首筋に冷や汗がにじんだ。
やっと気づいた。司が突然カラフルの買収を決めたのは、まったくの気まぐれじゃなかった——新しいオーナーの奥さんが、ずっとこの会社でデザイナーをしていたなんて!
さっき吉田が言った「おじさん」とか「安物の指輪」とかの皮肉を思い出し、後藤はその場で消えてしまいたい気分だった。なんとか平静を装い、声を震わせながら言った。
「私の見る目がありませんでした!まさか奥様がうちにいらっしゃるなんて、誰も教えてくれませんでした……」
「わざわざ言う必要はないよ。」
司は静まり返ったオフィスをひと睨みし、冷ややかな声で続けた。「ただ、まさか自分の会社で、自分の妻がこんな扱いを受けているとは思わなかった。後藤さん、カラフルの社風は、なかなか独特だね。」
その軽く放たれた「独特」の一言に、後藤は背筋が凍るのを感じた。これが自分への警告だと察し、慌てて吉田に睨みをきかせ、怒鳴った。「ぼーっとしてないで、早く謝りなさい!」
吉田はすっかり青ざめ、足もガタガタ震えていた。
まさか、あれだけ目の敵にしていた美月の夫が、あの一声で吉田家を破産させることもできる九条グループの当主だったなんて!さっきの嫌味は、虎の口に自ら手を突っ込んだも同然だった。
嵐が慌てて場を収めに入った。「九条さん、どうかご容赦を。どちらも若い従業員で、後ほど私からしっかり指導します。会議室の準備も整いましたので、どうぞそちらへ——」
「急がなくていい。」
司はその場から動かず、嵐に視線を移してゆっくりと言った。「さっき、誰かがお金でコンテストの参加枠を買ったって話が聞こえたけど?うちの妻も一枠ほしい。三倍の値段でどう?」
後藤はすぐさま嵐に睨みをきかせた。「何の枠を金で買ったって?ふざけるな!」
「い、いえ、国際ジュエリーデザインコンテストの参加枠です……」
嵐は手のひらに汗をにじませながら説明した。「先方との連携ミスで、もちろんお金なんて必要ありません!本来は平等に配るべきもので、すぐに手配し直します!」
「手配も何もない!」
後藤は慌てて口を挟んだ。「奥様にそのまま渡せばいい!たかが一枠で何を揉めてるんだ?」
「ちなみに、私はオーナーじゃない。」
司はさらりと言い、美月の手の甲を親指で撫でながら言った。「この会社は、妻に気軽に遊んでもらうために買ったもの。彼女こそ、本当のオーナーだよ。」
このひと言に、オフィスの空気が凍りついた。美月は司の横顔を見つめ、心臓が飛び出しそうだった——まさか自分のために会社をまるごと買ってくれるなんて、予想もしなかった驚きだった。
司は周囲の反応に気付かないふりをして、自分の右手を上げ、美月の指輪と並べて見せた。「このペアリングはイタリアのデザイナーが特注したもの。さっき安物だと言われたけど。」
司は吉田に視線を送り、皮肉っぽく言った。「ジュエリーデザイナーなのに、そんな見る目じゃ困るね。」
吉田の顔は一気に真っ赤になり、耳まで染まって俯き、消えてしまいたいほどだった。
「うちの妻は優しいから、あまり人と揉めたがらないけど——」
司の声が一段と冷たくなり、鋭いまなざしがオフィス全体を貫いた。「でも俺は違う。これから彼女に嫌味や嫌がらせをしたら、自分で態度を改めて残るか、さっさと会社を辞めるか、どちらか選んで。」
その言葉は氷のように場に落ち、誰もが息を呑んだ。後藤も息をひそめ、嵐に向かって怒鳴るしかなかった。「お前の管理はどうなってるんだ!従業員ひとつまとめられないなら、いる意味ないだろう!」
嵐はうつむき、反論できずに苦い思いを噛みしめていた。その場が一段落したかと思いきや、司が再び隅に縮こまった吉田に目を向けた。「そういえば、前にカラフルの展示室からネックレスを盗んで、九条家のパーティーに持って行ったことがあったよね。あのネックレス、もう戻した?」
「な、何ですって?」
嵐は顔を上げ、吉田にナイフのような視線を投げた。「会社のネックレスまで盗んだのか?」
「監視カメラを確認しろ。」
司は淡々と、しかし有無を言わせぬ口調で言った。
嵐はすぐに指示し、オフィスは混乱状態になった。美月はその隙に司を廊下の隅へ引っ張り、声を潜めて尋ねた。「どうして彼女がネックレスを盗んだって知ってるの?あの日のパーティー、あなたは来てなかったのに。」
「後からパーティーの映像を見て、君たちのやり取りも聞いた。」
司は美月の手を軽く握り、目元に笑みを浮かべた。「たとえ展示室の映像を消しても、ちょっとかき回してやるのも悪くないと思って。」
美月はまだ戸惑いながら、無意識に司の袖口をつまんだ。「本当にカラフルを買っちゃったの?私のために?」
「本当は、君の誕生日にサプライズで渡すつもりだったんだ。」
司は身をかがめて耳元でささやいた。「今日、たまたま君の働く姿を見たくなって来てみたら、こんな場面に出くわしたから、もう隠しておけなくて。」
「でも、実は転職を考えてたのに——」
美月は苦笑いを浮かべた。「ここじゃもう成長できないし、そろそろ他に行こうかと思ってたの。なのに今や自分の会社になっちゃった。どうやって辞めればいいの?」
司は彼女の心を見透かしたように、穏やかに笑った。「行きたいところがあれば、どこへでも行けばいい。君を縛るつもりはないよ。どの会社でも、自分でスタジオを開きたくても、ぜんぶ応援する。」
彼は美月の髪を優しく撫で、「心配しないで。旦那はお金持ちだから、妻が欲しいものは、何でも買ってあげるよ」と、愛情たっぷりに言った。
司の真剣なまなざしに、美月の胸は温かく満たされていく。さっきまでの衝撃が、じんわりと幸せに変わっていくのを感じた——大切にされるって、こういう感じだったのか。