司は一瞬言葉を止め、低く静かな声で言った。「彼がどんな人間かはともかく、今はとにかく病院に連れていくことが最優先だ。博司が譲ってくれないなら、こちらも無理やり連れて行くしかない。」
そう言うと、ソファに倒れている拓海を支え起こしにいった。美月も呼吸を合わせ、二人で左右から拓海の体を抱え、玄関へ向かった。博司はそれを止めることはなかった。
この状況では、司が口を出してくれたことで自分も一歩引ける――博司もそれを理解していた。
悠はそれを見てすぐ後を追おうとした。
「そこで止まりなさい!」博司が鋭く声を張り上げた。「病院に行くからって、なんでお前までついていく?ここに戻って大人しくしてなさい!」
「兄さん!」悠は今にも泣きそうな声で、「……ただ様子を見て、無事を確認したらすぐ戻るから」
「駄目だ。」
博司の鋭い視線に悠はすくみ上がった。今まで兄にこうして睨まれたら、どんなに反発したくても結局は引き下がってきた。だが、今は怪我だらけの拓海を放っておけなかった。
「兄さん、怪我させたのは兄さん、せめて一緒に行って手続きくらいは……医療費も……」
博司は二歩近づき、歯の隙間から絞り出すように言った。「お前、あいつのために俺の言うことも聞かないのか?」
「違う、でも怪我がひどすぎて……」
博司の目はますます険しくなり、妹を睨みつけた。「悠、これが最後の警告だ。今すぐあいつと縁を切れ!今日このまま病院に行くなら、もう俺の妹と認めない!」
悠の足がその場で止まった。玄関の外では、司と美月が拓海を車の後部座席に乗せ、もうすぐ出発しそうだった。
覚悟を決めた悠は、とうとう外へ飛び出した。
「兄さん!絶対に家族を捨てたりしない!すぐ戻るから!」
――病院――
診断の結果、拓海の怪我はほとんどが擦り傷や打撲だった。幸い骨には異常がなかったものの、顔はひどく腫れ上がり、しばらくは「豚の顔」みたいに見られそうだった。
医師が拓海の手当てをしている間に、美月は悠を廊下に連れ出した。
「ねえ、二人一体どういう関係なの?いつから?なんで私に何も言ってくれなかったの?」
悠はうつむき、小さな声で答えた。「あの日、私の誕生日に……」
「誕生日の日?」美月はあの日のことを思い返した。あの日、悠は酔いつぶれてふらふらで、最後は自分でタクシーを呼んで帰った。拓海が悠を家まで送ったのだった。
宴会では特に怪しい雰囲気もなかった。ということは、きっとその後に何かあったのだろう。
美月は眉をひそめた。「あの日、二人には全然そんな気配なかったのに。夜になってから……?」
「付き合い始めたってわけじゃないけど……」悠が顔を赤らめた。
「じゃあ、何?ワンナイト?」
悠はこくりとうなずいた。
美月は驚いてしばらく言葉が出なかった。数分してようやく気持ちを落ち着かせた。
「私が悪かった。あんなに酔ってたのに、男の子に送り届けさせるなんて危なかったよね……」
「美月のせいじゃないよ!」悠は遮った。「拓海はちょっとだらしないところはあるけど、いつも兄さんみたいに私のこと気にかけてくれてたし、送ってもらうのは普通だよ。」
「家に着いたあと、私が拓海に吐いちゃって……仕方なく私の家のシャワー借りて。そのときにはもう少し酔いが覚めてて、体つきがすごく良いなって……別に拓海から手を出されたわけじゃないよ。」
悠は目元を拭い、また強気な顔に戻った。
「あの時は、ちょっと寝るだけで何も損しないし、体も良かったから後悔ないかなって。で、それからずっと続いてる。最初は遊びのつもりだったから、特に美月に言う必要もないかって。」
美月はしかめ面で尋ねた。「じゃあ今は?付き合うつもりなの?」
「ちょっとそうかも。好きになってきちゃった。」
美月はため息をついた。「でもさ……」
「言いたいことは分かるよ」と悠がすぐに返した。「拓海が女好きだってことだろう?兄さんもそう言ってたし、私も多少は知ってる。」
美月は困った様子で言った。「無理に別れろとは言わないけど、どう見ても拓海は落ち着けるタイプじゃないよ。」
「さっき車の中でも司が言ってた。拓海は義理堅いし良い奴だけど、恋愛に関してはだらしない。外見は真面目そうでも、女の子が絶えないし、服を替えるくらい頻繁に付き合う子が変わるって。それがなければ兄さんもあんなに怒らなかっただろうって。」
「うん、分かってる」悠は頷き、美月を真剣な目で見つめた。「でも、拓海は私と約束してくれた。これからは変わるって。誕生日から今まで一ヶ月以上、他の子と関わってないよ!」
「そんなの信じてるの?」美月は悠の額を軽く小突いた。「もっと他に良い人、いくらでもいるのに、なんでわざわざ拓海なの!」
悠はふくれっ面で答えた。「だって、優しいし好きなんだもん。とりあえず付き合ってみるよ。心配しなくて大丈夫、ちゃんと自分の目で見てるから!もし裏切られたら、すぐに捨てるよ!」
美月は黙ってしまう。これ以上何を言っても、今の悠には届かないだろう。無理に止めようとしたら、逆に意地を張ってしまうかもしれない。
頑固な悠の顔を見ていると、美月はかつて誠司に夢中だった自分を思い出す。周りが何を言っても気づけなかった、あの頃の自分と重なる。
どうか悠が自分の気持ちを見失わず、これ以上深みにハマらなければいいが――
やがて治療が終わり、美月と悠は病室に戻った。
司は拓海のために看護師を手配していた。拓海は家族には知らせず、「しばらく出張」と嘘をつくことにした。
帰り際、美月は病室のドア越しに二人の様子を見た。
悠はベッドの脇に座り、拓海の手をしっかり握っていた。二人の視線は絡み合い、お互いを信じ合うような強い意志が感じられた。まるで一緒に困難に立ち向かう恋人同士のようだ。
美月はまた大きくため息をつき、司に尋ねた。「ねえ、拓海は本当に変われると思う?」
司は少し沈黙してから、「どうかな」とだけ答えた。
病院を出た二人は、近くの寿司屋で軽く食事をすませた。その後、美月は司に以前借りたマンションまで送ってもらった。
瑠奈の件が終わり、その示談金がもうすぐ振り込まれ、雅子はそのお金を受け取ったら実家に戻るつもりらしい。
きっと、これから会う機会も減るだろう。
美月は、雅子が東京にいるうちに、どこかへ連れ出したいと思っていた。
マンションの下に着き、まずはLINEで雅子の予定を聞いてみたが返事がなかった。
そのままエレベーターで上がり、部屋の前で何度もノックしたが応答がなかった。
仕方なくバッグから合鍵を取り出す。
ドアを開けた瞬間、部屋の中の光景に美月は言葉を失った。体中の血が凍りつくような衝撃が走った――