雅子の両親のような人たちに理屈を説いても、まったく意味がなかった。
彼らは分からないのではなく、分かっていながら知らんふりをして、ひたすら自分たちの都合だけを押し通そうとしていた。
以前、美月がお金を雅子に送っていたときも、両親はそれが当たり前だと思い込み、美月が一生面倒を見るものだと信じて疑わなかった。美月が優しくて強く出られないのを見越して、図々しくも長居を決め込み、ついには居座ろうとまで考えていた。
こんな手合いには、いちいち相手をするだけ無駄だと美月は思った。
「猶予は一日だけ。部屋を元に戻して、出て行って。さもないと、すぐ警察を呼ぶ。」
「それは困る!」小林の父親が声を荒げた。「最初はあんたが頼んできたんだぞ。用が済んだら追い出すなんて、人としてどうかしてる!」
美月は呆れた。「最初から弁護士が説明したはずだ。雅子さんを東京に呼んだのは、証言のためだけ。誰がここに一生住んでいいなんて言った?」
部屋の中は一瞬で静まり返った。
美月はもうこれ以上顔を見たくなくて、踵を返した。だが、その時雅子が袖を掴んだ。
振り向くと、泣きはらした目で必死にこちらを見つめている。美月の心がちくりと痛んだ。このまま自分だけ出て行けば、家族の不満すべてが雅子に向かうだろう。
そう考え、美月は雅子の手を取り、そのまま一緒に部屋を出た。
「前に東京を案内するって言ったよね。今日がその日だよ」
美月は勢いよくドアを閉め、雅子と一緒にエレベーターに乗り込んだ。取り残された家族は、呆然としていた。
エレベーターが下り始めると、美月は口を開いた。
「追い出そうとしてるわけじゃない。でも、あの部屋をあんなふうにされた以上、もうあの人たちは住ませられない」
少し沈黙があって、雅子が小さな声で「……ごめんなさい」と呟いた。
もともと美月より背が低い雅子は、うつむいているせいで頭頂しか見えなかった。
「最初、両親が一緒に来てくれたときは、本当に心配してくれてるのかと思ってた。でも……」美月はため息をついた。
雅子は少し勇気を出して話し始めた。「最初は、ここまで考えてなかったんだ。でも東京に来て、弁護士さんが用意してくれた部屋もご飯もすごくて……」
「美月さんがこんなにいいマンションに住ませてくれて……最近ずっと会えなかったから、もう何も言われないと思って……それで、あんなことを……」
話しながら涙を拭く雅子の手は荒れて、しもやけまでできているのに美月は気がついた。
「まだ十一月なのに、どうしてそんなに手が荒れてるの?」
雅子は慌てて袖に手を隠した。「……大丈夫。ずっと家事ばかりしてたから、慣れてる」
その姿に、美月の胸は痛んだ。
「いっそ東京で仕事を探したら?実家の世話なんかよりずっといいと思うよ。さっき聞いたけど、お母さん、また結婚させようとしてるの?」
「うん……」雅子の声が震えた。「田舎で、四十過ぎの人を紹介されていて……そのお金で弟のために使うつもりらしい……」
「なにそれ?」美月は思わず声を荒げた。「今どきそんな……」
雅子は涙を拭き、美月を見上げた。「美月さん、警察に連絡して。あの人たちを追い出してくれれば、きっと田舎に帰るから…」
「じゃあ、雅子はどうするの?」
「……私なんか、東京で仕事なんて見つかるのかな……」
右脚に障害があり、声も出しづらい。高校も卒業していない。確かに簡単じゃない。でも、田舎に帰って無理やり知らない男に嫁がされるより、東京に残る方がまだましだ。
美月が返事をしようとしたとき、雅子は力なく言った。「やっぱり無理だよ……親が許すはずないし、家の事もあるし……」
一階についた。マンションのエントランスを出たところで、美月は真剣な表情で尋ねた。
「雅子、本当に東京に残りたいと思ってる?よく考えて、正直に答えて」
雅子は苦しそうに顔を歪め、長い間黙っていたが、やがて力強く頷いた。
美月は微笑んだ。「分かった。じゃあ、私が何とかする。両親と弟には帰ってもらって、雅子はここに残れるようにする」
頼るのは司しかいない。
警察を呼んだところで、小林家がごねれば厄介なことになる。でもこのマンションは九条グループの所有だ。司に頼めば、いくらでも手はある。こういう相手には、普通じゃ通じないやり方が必要だ。
美月はその場で司に電話し、事情を手短に説明した。
司はすぐに「任せて」と答えた。
電話を切ると、美月は雅子に「じゃあ、まずは買い物に行こうか」と声をかけた。
買い物をしているうちに、雅子も少しリラックスして、やっと笑顔を見せるようになった。
お昼過ぎ、司から電話が来た。
「片付いたよ。今、あの人たちを新幹線に乗せて、見送ったところだ」
「そんなに早く?」美月はその手際の良さに驚いた。「どうやったの?」
電話の向こうで司が低く笑った。「60万円渡して、娘を置いてさっさと出て行け、と言ったんだ」
「まずは穏便に話して、高橋に何人か連れて行かせた。もしごねたら、もっと簡単に済ませる方法もあるからね」
「さすがだね」美月は心からそう思った。
電話を切り、雅子に報告したが、雅子の表情はどこか沈んでいた。
「……60万円で、私を手放したんだ……」
「気にしないで」と美月は励ました。「あなたの自由を得るための60万円だよ。しばらくはここに安心して住んで、ゆっくり仕事探そう。私も手伝うから」
「ありがとうございます……」雅子は目に涙をためて、「その60万円、必ず返します」と頭を下げた。
午後、美月は雅子に新しい銀行口座を作らせ、裁判所にも連絡して、瑠奈からの賠償金をその口座に振り込むように手続きした。
今までは小林の父親の口座だったせいで、雅子には一円も渡っていなかった。これからは、賠償金は雅子自身のものになる。
夕方、美月は雅子を元のマンションまで送り届けた。
「ここでしばらく安心して過ごしてね……」
ドアを開けた瞬間、二人は思わず息を呑んだ。
今朝まで荒れ放題だった部屋が、まるで新築のように綺麗になっていたのだ。言うまでもなく、司のおかげだ。
美月はLINEで「ありがとう」と送り、土下座のスタンプを添えた。
司からもすぐ「大したことないよ」と返信が来た。
「今夜は接待があるから、夕食はいらない」
美月は「分かった」と返した。
スマホをしまった矢先、突然着信音が鳴った。
画面を見ると、叔母からだった。
叔父の家とは長く連絡を取っていなかったので、このタイミングで連絡が来るのは嫌な予感しかしない。
美月は無視して電話を切った。
するとすぐ、叔母からメッセージが届いた。