美月はその言葉を聞いて、張りつめていた神経が少し緩んだ。
隣に座る渡辺を横目で見た。四十歳前後、体格は太めで、顔には脂ぎった笑みを浮かべ、ねっとりとした視線をこちらに向けてきた。その不健康そうな青白い顔つきは、いかにも体が弱そうだった。
もう逃げられないと悟った美月は、観念して席に腰を下ろした。この男も、叔父や哲の目の前で無茶なことはできないだろうし、銀座の「ムーンライト」もきちんとした店だ。少なくとも安全面は心配ないはずだった。
美月が座ると、哲もようやく彼女の肩から手を離し、テーブルの向こう側に回って丁寧に渡辺に零響を注いだ。
「渡辺さん、こちらは僕の従妹の美月です。今日は気楽な食事ですので、どうぞご自由に。」
叔父もすかさず笑顔で続けた。「美月、ほら、ご挨拶して、渡辺さんに一杯お注ぎしなさい。」
美月は動かず、無表情で口を固く閉ざしていた。
叔父の笑顔が引きつった。「……この子は内気で、あまり喋らないんですよ。まずは料理を出しましょう、食事が先ですね。」
すぐに店員を呼んで料理を運ばせた。
テーブルいっぱいに並ぶ料理に美月は一瞥をくれた。刺身の盛り合わせ、トリュフの茶碗蒸し、神戸牛のステーキ——酒を除いても、これだけで少なくとも40万円はかかっていそうだった。どうやら渡辺は小早川家が急いでいる大きな案件を握っているらしかった。
視線を戻すと、右隣の渡辺が露骨な欲望を込めてじっと彼女を見ているのに気づいた。
美月は椅子を大きく引き、わざと耳障りな音を立てて距離を取った。
叔父がすぐに小声で叱った。「何やってるんだ、礼儀がなってないぞ!やっと渡辺さんをお招きできたんだ、変な顔をするな!」さらに声を潜めて美月に迫る。「この案件が決まれば、お前にもちゃんといいことがあるんだ。黙って座ってろ!」
美月は呆れたように叔父を睨んだ。
叔父は気まずそうに渡辺に向き直った。「渡辺さん、お料理はお口に合いますか?もし気に入らなければ、他のものも頼めます。」
「満足してますよ。」渡辺の視線は相変わらず美月に釘付けで、満足しているのは料理ではなく彼女のようだった。
幸い、その後は主に小早川親子に話しかけ、あからさまに視線を向けることはなかった。
美月は彼を空気のように無視し、固まったまま箸もグラスも手をつけず、冷ややかに彼らのやり取りを見守っていた。
しばらくして、哲が痺れを切らした。
「渡辺さん、この前お話ししていたプ案件、進展はありましたか?」
「もうすぐ入札が始まるよ。」渡辺は機嫌が良さそうで、顔中に皺を寄せて目を細めた。
「最近はお忙しいでしょう、本当にご苦労様です。」と哲。
「ええ、渡辺さんのおかげで助かります!」叔父も杯を持ち上げた。「この案件のためにご尽力いただき、感謝しています。」哲に目配せし、声を低くして「もし我々に決めていただけたら、必ずご満足いただけます」と指で具体的な金額を示し、リベートを匂わせた。
だが渡辺は乗ってこなかった。「入札にはちゃんと手順がある。まずは食事を。」
「そうですね、まずは食事を。」
皆が箸を取ったその時、黙っていた美月が突然口を開いた。
「渡辺さん、小早川家のあの物流会社とは絶対に取引しないほうがいいですよ。」
「小さくて古くて、資格も不十分だし、過去に事故も起こしてます。不吉ですよ。」と大げさに首を振った。
席に付き合わされた腹いせに、せめて彼らの計画を台無しにしてやろうと、わざと火をつけた。
「最近は税務署にも入られたそうですし、そんな所と組んだら、もしお金を持ち逃げされたら泣くに泣けませんよ。気をつけた方がいいです。」
言い終わるやいなや、テーブルの三人の顔色が一変した。
「何を馬鹿なことを!」叔父が怒ってテーブルを叩いた。「黙って食べなさい、余計なことは言うな!」
哲も慌てて取り繕った。「渡辺さん、彼女は若いから分かっていないだけですので、気にしないでください……うちの会社は税金もちゃんと納めてますし、資格もあります。事故も一度もありませんので、ご安心を!」
渡辺は一瞬不快そうな顔をしたが、すぐに作り笑いを浮かべた。「大丈夫ですよ、美月さんの冗談でしょう。」
その顔にはいやらしい笑みが広がり、体を美月の方へ寄せると、太い手が彼女の太ももに伸びてきた。
指先がスカートの裾に触れた瞬間、美月は勢いよく手を振り上げ、「パシッ」と強く彼の手の甲を叩いた。
渡辺は「うっ」と声をあげて手を引っ込め、顔色が一気に曇った。
叔父は箸を放り投げて怒鳴った。「美月!なんてことをするんだ!すぐに渡辺さんに謝りなさい!」
美月は手を振り、「渡辺さんは感謝するべきですよ。さっき嫌な蚊が飛んでいたので、叩いてあげたんです。もしまた来たら、そのたびに叩きますから。」
個室は静まり返り、美月以外の全員の顔が真っ青になった。
少しの間があり、渡辺が無理に笑って言った。「……そうそう、蚊がいましたね。美月さん、ありがとう。」そしてグラスを持ち上げた。「美月さんに一杯。」
美月は冷たい表情のまま、動かずに彼を無視した。
渡辺はまた乾いた笑いを浮かべ、「じゃあ、私は一人で飲みます。気が強いね、面白い」とごまかした。
その後は手出ししてくることはなくなった。
テーブルでは雑談が続き、哲は何とか話を案件に戻そうとした。
美月はぼんやり聞き流しながら、隙を見ては小早川家の会社の問題点をちくちく指摘し、小早川親子は目を剥いて怒り心頭——助けているどころか、足を引っ張っているようなものだった。これでは案件もおじゃんだろう。
叔父は気まずそうに言った。「……小早川家が九条グループと組めれば、全力を尽くしますよ。渡辺さんにもメリットがありますし、ウィンウィンの関係です!」
その言葉に、美月はちらりと渡辺を見た。
なるほど、九条グループの人間か?
九条グループにこんなレベルの低い人間がいるはずがない。まさか九条の名を騙っているのでは?
他の会話で盛り上がっている隙に、美月はそっとスマホを取り出し、渡辺の写真を撮った。
そして司のLINEを開き、写真を送った。「この人、知ってる?」
しばらくして司から返事が来た。「知ってるよ、うちの支社の担当者だ。どうかした?」
美月は返信した。「今、入札先と個人的に接触してる……」
これだけじゃ弱いかと思い、
「リベート狙ってるみたい」と書きかけて消した。
でも、さっき渡辺ははっきりと叔父の話に乗らなかった。
結局、その部分を消して、こう打ち込んだ。
「さっき、太ももを触られた。」