再び目を覚ました時には、すでに翌日の午後だった。
消毒液の匂いが鼻をつき、目に映るのは真っ白な天井。
玲子は乾いた唇を動かし、全身に力が入らないまま、ベッド脇のナースコールを押した。
「目が覚めたの?」看護師が入ってきた。
「特に大きな問題はないわ。過労と冷えで倒れただけ。もう退院して大丈夫よ。」
体の擦り傷はきちんと処置されていた。水野玲子はかすれた声で尋ねた。
「誰が私を運んだの?」
「若いイケメンだったわよ……」看護師は思い出すように言った。
「医療費も立て替えてくれて、お礼は要らないって。」
玲子はうつむいた。昨夜、怪我した足を引きずりながら冷たい風の中を何時間も歩いた。どの車も止まってくれなかった。
冷たい風が骨身にしみ、ついには道端で倒れてしまった。
運良く、親切な人に助けられた。その感謝の言葉も、伝える相手がいない。
病院を出た水野玲子は、例の「家」と呼ばれる場所へタクシーで戻った。
「こんなガラクタ、全部捨てちゃって!」
ちょうど廊下に差し掛かった時、嫌悪感に満ちた女の声が聞こえた。
嫌な予感がして、足を速めた。
玄関前はめちゃくちゃで、彼女の服や日用品が無造作に放り出されていた。
玲子は扉を押して中に入った。
白石美咲は物音に気づき、振り返る。その手には鍵の束が揺れていた。「ちょうど帰ってきたわね!あんたのゴミ、さっさと持って行きなさい!」そう言って作業員にさらに作業を急がせる。
「これは住居不法侵入よ!」玲子は毅然と抗議した。
華やかで傲慢な白石と、やつれ果てた自分。あまりにも皮肉だった。
「鍵は航からもらったの。」白石は嘲るように言う。「この家も航があんたに買ってやったものよ。」
「やれるもんなら通報してみなさいよ。」彼女は挑発的に笑う。
玲子は怒りに震えながらも、彼女に歩み寄った。その気迫は白石をも上回った。
「確かにそうね。」彼女は一見弱々しく、けれど頑なに言葉を続ける。
「でも、何年も付き合って、結局手に入れたのはこんなボロ家一軒だけ。どう考えても割に合わないわ。でも白石さん、あなたは“婚約者”って肩書き以外に、何か手に入れた?」
「安心して、私の引っ越しに手伝わなくもいいよ。私、汚いのは嫌いだから。」
その言葉に、白石の顔色が一瞬で変わった。
そう言いながらも、水野玲子の胸も痛んだ。
「この恥知らず!」白石は信じられないという顔をした。
だが、それが現実だった。
次の瞬間、白石の手が振り上げられる!
水野玲子はその手首を掴み、鋭く言い返した。「片手だけじゃ音は鳴らないわよ。文句があるなら、神崎航に言いなさい!」
やられたら、そのままやり返す。結局、どちらが無力だったのか?
白石の綺麗な顔はみるみるうちに赤青入り混じった。
彼女は玲子を指さして叫ぶ。
「どうせ私、あんたがどうやって航を誘惑したか知ってるんだから!私が戻ってきたからには、今すぐ消えなさい。二度と私の前に現れないで!」
玲子はその脅しにまるで動じず、むしろ笑った。
「誘惑?それでも結局、彼は引っかかったんでしょ?」
「でももう飽きたわ。あなたの婚約者、大事にしなさい。私の方が、先に別れを切り出したからね!」
追い詰められたウサギだって噛み付く。それに、玲子はそもそもウサギなんかじゃない。
白石は雷に打たれたような顔で、怒りに我を忘れた。「あんたなんかが、航のことを語る資格ないくせに……!」ヒールを鳴らして突進してくる。
玲子は身をかわし、ふと玄関に目をやると、そこに立つ人影に気づいた。いつからそこにいたのかも分からない。
あの冷たい瞳を見つめているうちに、彼女は徐々に意識を失いそうになった。
初めて彼に会った時のことを思い出す。
あの時は騒がしいバーだった。神崎の会社に入って間もない頃、上司に無理やり取引先の接待に連れて行かれた。
テーブルで、次々とワインを飲まされ、
偉そうな社長たちが本性を現し、彼女に手を出してきた。
トイレに行くと嘘をつき、具合の悪さをこらえて、ふらふらしながらエレベーターに駆け込んだ。
可哀想に思われたのか、同じエレベーターにいた彼が近づいてきて、低い声で「助けが必要でしょうか?」と聞いてきた。
彼女はなぜか、うなずいてしまった。
あの出会いは、神崎の一時の気まぐれだったのかもしれない。でもその一言で、彼女はすっかり惹かれてしまった。
そして、彼が差し出した愛人関係の契約書に、愚かにもサインしてしまった。
もう四年が経った。
水野玲子と神崎航の間に横たわるものは、白石美咲ではなく、彼が自分を愛していないという現実だった。
結局は、自分の片想いに過ぎなかった。
玲子の呆然とした様子に、白石も気づいたようだ。
白石は振り返り、すぐに牙を隠して、神崎の腕にすがりついた。
「航!あの女があなたのことを侮辱したの!」と、悔しそうに訴える。
「水野、お前、恥はないのか?」神崎は玄関に立ったまま、鋭い言葉を放つ。その眉間には深い皺が寄り、心の奥にかすかな違和感がよぎった。
「もうないわ。」玲子は苦笑した。
もう、終わりにする時だ。
神奈川支社に行くつもりも一瞬で消え、彼女はすでにまとめてあったスーツケースを持ち上げた。
「今夜、私の辞表を承認してください。私たちは、あなたの婚約者さんの願い通り、これで本当の他人になります。」微笑みながらも、その言葉は皮肉に満ちていた。
この戦いの敗者は、彼ら二人なのだ。
玲子は彼らの横を通り過ぎ、背筋を伸ばして、このマンションから歩き去った。
夕陽の最後の輝きが彼女を包み、まるで金色のオーラのように見えた。
その温もりも、すぐに冷たい風に吹き飛ばされる。広いこの街のどこかに、きっと彼女の居場所はあるだろう。