「ちょっと!どうしたのよ、そんな顔して?」
佐藤美羽はボサボサの髪のままドアを開け、やつれきった水野玲子を見て思わず声を上げた。
長年の親友の前でだけ、玲子は無理に張っていた仮面を外し、堪えていた疲労が一気に押し寄せる。
深く息を吸い込む。
「美羽、しばらく……ここに泊まってもいい?」
「どれだけでもどうぞ!」
美羽は一切迷わず、即答した。彼女は出張が多く、家もたいてい空き家同然だった。
部屋に入ってから、玲子はようやく最近の出来事を全て語った。
美羽は話を聞くそばから怒り心頭、思わず悪態をつく。
「あんなの社長でもなんでもないでしょ!クズだ、クズ!」
「もう、あんなクズ、二度と近寄らない!」
彼女は玲子の背中を軽く叩きながら慰めた。
水野玲子は力強くうなずき、決意の色を宿す目でパソコンを開き、退職願を書き始めた。
そのとき、突然メールの通知が飛び込んできた。
------雇用契約書。
開いてみると、それは彼女が神崎財閥に入社したときに交わした契約書だった。
当時は、浮かれて自分に都合よく「約束」だと思い込んでいた。
だが今となっては、冷たく重い鎖でしかない。
水野玲子の心は一瞬で奈落へ落ち、契約書の重要な部分を示す赤丸を見つめる。
期間:5年
残り:五ヶ月
乙(水野玲子)が途中解約の場合、違約金:三億円
息を呑む。
神崎航……あいつ、一体何を考えているの?
愚かなのは自分だ。あの男に心を預け、契約の細かい条文もろくに読まずにサインしてしまった。
手が震えながら、玲子は電話を手に取るが、かけるべきか迷って指が止まる。
だが、まるで見透かされたように、先にスマホが震えた――会社の代表番号だ。
喉が詰まるような感覚。それでも玲子は電話に出た。
「水野秘書、契約書はご確認いただけましたか?」
神崎航の側近、田中の声。意図的な慎重さがにじむ。
――どうやら、そばにいるようだ。
「神崎航を出して」
玲子は怒りを抑え、驚くほど冷静に言う。
あいつが私の取り乱す姿を見たいなら、絶対に見せてやるものか。
「三億円だ」
神崎航はゆっくりと電話を引き継ぎ、余裕たっぷりの声で言った。
「水野玲子。俺がいなければ、お前は何の価値もない」
玲子は拳をぎゅっと握り、悔しさに笑いが漏れる。
「追い出したのはあなたでしょ?今さら何なの?」
「神崎、私はもうあんたに何の借りもない。たかが五ヶ月でしょ?」
――私は耐えてみせる。
電話は冷たく一方的に切られた。
水野玲子はパソコンを閉じ、しばらく呆然とした後、無理やり思考を整理した。
神崎航の狙いは、まだ私を弄び足りないか、あるいは婚約者のために八つ当たりしたいだけだろう。
――もう、どうでもいい。
翌日、玲子は彼の「ご希望通り」に、神奈川支社へと出社した。
かつての首席秘書から、今や地方支社の下っ端プロジェクトメンバー――
まるで天国から地獄への転落だ。
これが「左遷」じゃなくて、なんだっていうの?
支社内のヒソヒソ話も当然だったが、玲子は気に留めない。
降格で少しは楽になるかと思いきや、彼女は新規プロジェクトの忙しいチームへ即座に配属された。
途中参加の玲子には、膨大な資料をゼロから読み込む必要がある。
数日間、息つく暇もなく働いた。
その努力とプロ意識を、チームリーダーの小林浩はしっかり見ていた。
最初こそ偏見もあったが、次第にそれが消えていく。
そして、ある日。
小林は企画書の初稿を玲子に投げてきた。「仕上げてくれ」と。
忙しい日々があっという間に過ぎていく。
たった一週間で、玲子はその実力で支社にしっかりと地位を築いた。
特に、彼女が企画書の気づかぬところにミスを的確に指摘し、有効な修正案を出したことで、
チームは次の案件も無事獲得。小林はすっかり玲子を見直した。
一方――
白石は内部連絡で、玲子が支社でむしろ重用されていると知り、思わず電話を叩きつけそうになる。
「あの女、絶対に裏で何かやってるに違いない!」
怒りを抑え、白石は車を飛ばし支社へ。玲子のデスクに書類を叩きつける。
「これ、処理しなさい!午後、航が会議で使うんだから!」
玲子は腕を組み、口元に薄い笑みを浮かべる。
「白石さん、勘違いじゃありません?私はもう社長の秘書じゃないですよ。彼が何使おうと、私には関係ないでしょ?」
白石美咲は言葉に詰まり、顔色がみるみる青ざめる。
玲子は髪を耳にかけ、オフィスを一度見回してから言った。
「この部屋、白石さんがそんなに好きなら、どうぞご自由に。」
玲子は微笑みながら、白石の歪んだ顔を無視して立ち去った。
白石美咲は怒りで机上の書類を全て床に叩き落とし、歯ぎしりする。
「クソ女……覚えてなさい!」捨て台詞を残してオフィスを出た。
さっきの恥を考えて、白石の目に陰険な光が宿る。
彼女は突然、自分の頬を思い切り叩いた。
そしてスマホを取り出し、神崎航の番号に電話をかける――。