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第7話 陥れられた


午後の日差しがブラインド越しに神奈川支社プロジェクトチームのデスクにまだらな光と影を落としていた。玲子は次回入札案の細部に集中して目を通し、ペン先が紙を擦る音だけが静かに響いていた。


オフィスのドアが音もなく開き、冷たい空気をまとった長身の影が彼女のデスク前で止まった。神崎航が高圧的に彼女を見下ろし、氷のような声で言い放つ。

「俺の言葉、聞き流したのか?」


玲子は書類の山から顔を上げ、困惑したような瞳を向ける。

「何のことですか?」


「神奈川に来させたのは、問題を起こさせるためじゃない。」

神崎の瞳は陰り、危険なほど細められ、目に見えぬ圧力が空間を満たした。


玲子の脳裏を、今朝の白石の挑発が一瞬よぎる。なるほど、先に悪事を訴え、あろうことか自分に濡れ衣を着せたのだ。


彼女は静かに立ち上がり、部屋の隅の給水機へ歩み寄る。いつもの陶器のカップを手に取り、ぬるま湯を半分ほど注いだ。静寂の中、水がカップを満たす音がやけに大きく響く。

「白石が告げ口したんですね、私が彼女を叩いたとでも言ったか?」

カップを持ち直して振り返り、平然と神崎を見つめる。


「違うのか?」神崎は片手で高級スーツの袖口の精巧なボタンを外し、どこか苛立ちを滲ませた。「お前以外に、そんなことする奴がいるか?」


水野玲子は水を半分ほど飲み、カップをデスクに戻して淡々と言った。

「彼女には指一本触れていません。」


神崎の顔にはいつもの冷淡と不信が浮かんでいる。


この男には何を言っても無駄だと悟る玲子。

「そんなに彼女が大事なら」

彼女は一拍置き、かすかな皮肉を込めて続ける。

「社長はご自分の婚約者をよくしつけてください。私に近づけなければ、互いに穏便にやれるでしょう。」


「水野!」神崎航は突然、彼女の細い手首を強く掴み、玲子の体はバランスを失い、一歩前に倒れかけた。


距離が一気に縮まり、馴染み深い甘い香水が玲子の鼻腔をつく。白石が愛用する香りだ。彼女は一瞬、動揺し、視線がわずかに虚ろになる。


神崎の冷たい視線が、一週間ぶりに見る少しやつれた玲子の顔をとらえ、心の奥底で何かがかすかに疼いた。しかし次の言葉は、外の寒い風よりも冷酷だった。

「これが最後の警告だ。俺の忍耐力をこれ以上試すな。」


彼は彼女を乱暴に突き放した。


玲子の腰が無防備のまま、後ろの硬く冷たいデスクの角に激しくぶつかる!鋭い痛みが瞬時に爆発し、視界が暗転、顔が真っ青になって額に冷たい汗が滲む。彼女は唇を噛みしめ、叫び出そうな声を飲み込み、背筋を真っ直ぐに保った。


神崎がドアの向こうに消えてようやく、玲子は握りしめていた拳をゆっくりと解いた。掌には爪の痕が深く刻まれていた。痛む腰を押さえ、唇にはやりきれない自嘲の笑みが浮かぶ。


――見ろよ、神崎の脚本では、私は永遠に醜い加害者だ。


白石がエレベーターからゆらりと現れ、ちょうど険しい顔で出てきた神崎と鉢合わせた。彼女の目は瞬時に潤んだような哀れげな色に変わり、すぐに駆け寄って腕に絡みつく。

「航、ごめんなさい、全部私が悪いの……玲子さんのこと、あまり責めないであげて。きっと私のことが嫌いで、ついカッとなって……」


神崎は一瞬足を止め、数秒の沈黙の後、そっと腕を引き抜き低く言った。

「これからは、彼女に近づくな。」


その言葉を聞いて美咲は、神崎が自分を庇ってくれたのだと確信し、心の奥で歓喜と得意の念が湧き上がった。やっぱり一番大事にされるのは自分!水野玲子なんて、取るに足らない。


「うん、もう迷惑かけないから。」と素直に答え、まるで無害な小ウサギのように従順な目を向ける。


神崎は横目で彼女を見る。白石は確かに従順で、何も逆らわず、彼の意に沿うように振る舞う。


だが、不思議なことに、こうして自分の傍にいても何も問題を起こさない美咲よりも、先ほど冷たい言葉で反抗した玲子のほうが、簡単に彼の心の水面に石を投げ、深い淀みをかき乱すことができるのだった。


なぜ自分は、美咲から送られてきた頬に赤みの差した「証拠写真」を見ただけで、大事な国際会議をも中断し、神奈川支社に急いで駆けつけてしまったのか?


その疑問が、眉間に深い皺を刻み、本人も気づかぬ苛立ちを胸に走らせる。


颯爽と去る神崎の背中を見送りながら、美咲の顔から従順な仮面が一瞬で消え、代わりに冷たく勝ち誇った笑みが浮かぶ。水野玲子、私に勝負を挑む?まだまだ甘いわ。


玲子は腰の鈍痛に耐えつつ、洗面所へと向かった。個室のドアを閉めた瞬間、外から「カチャリ」と小さな音がした。ハッとしてドアノブを回すと――びくともしない。


誰かが外から鍵をかけたのだ。


「誰かいますか?」玲子は力いっぱいドアを叩き、声を張り上げた。


だが返事はなく、静寂だけが返ってくる。


玲子は無駄な呼びかけを諦め、冷たいドアにもたれて目をつむった。こんな幼稚で卑劣な手口、黒幕は誰か言うまでもない。


狭い個室で二十分近く過ごし、腰の痛みと心の鬱屈で息苦しくなる。玲子は再度、全身の力を込めてドアに体当たり!「ガタン!」という鈍い音とともに、内部の脆い部品がついに壊れ、鍵が床に転がり落ちた。


玲子はすぐにドアを押し開け、外に出る。


外の洗面所のドアは少しだけ開いていた。玲子は深呼吸し、手を伸ばして押す――


ザバーッ!!!


頭上のドア枠から、氷のような冷水が容赦なく降り注ぐ!


骨の髄まで冷たさが刺さり、薄い服を貫いて肌を突き刺す。玲子は全身びしょ濡れ、頭の先から足元まで水滴が滴り、見るも無残な姿。思わず目を閉じ、冷たい雫が髪や頬を伝い、歯の根も合わないほど震えた。


玲子は水に霞む目を見開く。


ぼんやりした視界と水のカーテン越しに、白石美咲が数歩先の共用洗面台の前に立ち、腕を組んで、まるで勝者のような、悪意に満ちた笑みを浮かべて自分を眺めているのが、はっきりと見えた。


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