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第8話 反撃の代償


「これがあなたの限界?」白石の威圧的な態度が、玲子の抑えつけてきた怒りに火をつけた。朝の濡れ衣、今の露骨な嫌がらせ、濡れた服が肌に張りつき、身を切るような寒さ。しかし、その冷たさよりも胸の怒りの方が遥かに熱かった。


どうせ濡れ衣を着せられるなら、その罪を本当にしてやろう!


そう決意し、玲子は一切の迷いなく、手を振り上げて白石の頬を思いきり叩いた!


乾いた音が響き渡る。白石は頬を押さえ、目を見開き、甲高い声で罵った。「このくそ女!私に手を出すなんて…今すぐ航に訴えて、あんたをクビにさせる!」


骨の髄まで冷えたが、玲子の心には破れかぶれの覚悟が湧き上がる。耐えるくらいなら、いっそすべて燃やしてしまえ――あの忌々しい契約ごと。


「叩いた?ふん」玲子は冷笑し、さらに力を込めて、「人としての道を教えてやってるのよ!」


甘やかされて育った白石が敵うはずもない。玲子は彼女の襟首を掴み、無理やり洗面台の方へ引きずり、勢いよく頭を水道の流れに押し付けた!


「離して!くそが!絶対に許さないから!」白石は悲鳴を上げ、水が彼女の髪と顔半分を濡らす。


突然、強い力が玲子を引き剥がし、壁に叩きつけた!


「ドン!」肩甲骨が冷たいタイルにぶつかり、激痛で目の前が暗くなる。隣の鉢植えが床に砕け、陶器の破片が飛び散り、むき出しの足を切った。


水野玲子は荒く息をつき、足の痛みを無視して顔を上げた――神崎が険しい表情でドア口に立っていた。


ふん、タイミングがいいものね!


神崎は彼女の手首をつかみ、怒りを抑えきれない目で言った。「謝れ。」


「どうして?」玲子はその手を振りほどき、赤くなった手首を揉みながら、皮肉っぽく口元を吊り上げた。「彼女が最初に罠を仕掛けたのよ?彼女の悪事は許されるのに、私が反撃するのはダメ?」


白石はすぐに神崎に寄り添い、か弱い声で言う。

「航、もういいの…私は大丈夫だから…」


神崎航は苛立ってネクタイを緩め、白石の「寛大さ」を無視して、氷のような視線を玲子に投げる。

「最後通告だ。謝るか?」


「謝るなら、まず彼女が!」玲子は腕を組み、まったく引く気配がなかった。


この時の玲子は、みすぼらしいが、息を呑むほど美しかった。濡れた白いシャツは鎖骨から胸元までのラインを浮き上がらせ、タイトなスカートが体にぴったりと張りつき、しなやかなシルエットがかすかに見える。背筋を伸ばし、濡れた髪が頬に張りつき、まるで嵐の中でも枯れない花のようだ。


神崎航の視線がわずかに揺れる。喉仏が動いた。


「業界で干されるぞ。国内の一流企業は誰もお前を雇わない羽目になる。」

その脅しは無情で、直接的だった。本社を出てまだ経ってないのに、もう他人に手を出すとは。今日の相手が白石美咲だったからまだいいが、もし違う相手だったらどうするつもりだ。そんな考えが神崎を苛立たせ、最近やたらと玲子を思い出してしまう自分に腹が立った。彼の周囲の空気が重くなる。


「いいわ、干せば?」玲子は顎を上げ、虚勢の笑みを浮かべて背を向けた。


「待て。」命令のような声が響き、神崎の視線が彼女の濡れた背中をなぞる。


玲子は立ち止まり振り返る。涙で視界がぼやけ、その顔はかつて夢にまで見た彼なのに、今は酷く憎らしい。こんなにも彼と知り合ったことを後悔したのは初めてだ。


「謝れ。」またその二文字。


「立派な神崎グループの社長さんが、女のことで見境なくなるなんて!」玲子は声を震わせ、嗚咽をこらえ、「もうあなたみたいな分別もわからない人の下にはいたくない!私は自分の力を信じてる。たとえ神崎グループを出ても、死ぬことはない!」


その言葉は場に響き渡り、周りで見ていた社員が息を呑む。噂の「愛人」はこんなにも強気なのか?神崎は紛れもなくビジネスの天才、数年で神崎グループの規模を拡大させた、その実力は疑いようがない。なのに「分別もわからない」と罵倒されるとは。


玲子の涙が頬を伝い落ちるのを見て、神崎の手が無意識に白石の肩を強く握った。苛立ちはさらに強くなる。


「水野玲子、契約条項を読み直せ。」

神崎の声は感情が読み取れない。


白石は彼の表情の変化に気づき、二人を交互に見つめ、不安が募る。


「昨日、山本茂が俺に言ってきた。」神崎は話題を変え、皮肉な声で言う。「お前を渡せば、昔の借りは全部チャラにするって。選べ。俺に引き渡されるか、謝るか。」


玲子は体をこわばらせ、半歩後ろに退いた。白石は勝ち誇ったような視線を送る。


「航!この女に跪いて謝らせて!」白石は甲高い声で言い放つ。


玲子が言い返そうとした瞬間、慌てた声が飛び込んできた。


中村が走り込んでくる。「社長、本社から緊急連絡です!『サザンベー』のクライアントが予定より早く到着しました、お戻りください!」


「実力を証明したいんだろ?」神崎航は玲子を見据える。「『サザンベー』を取ってこい。それで謝罪は帳消しだ。」


「契約解除もしてよ!」玲子はすかさず返す。


答えを待たず、彼女は背筋を伸ばし、濡れたままの背中を向けて歩き去った。


会議室は広く明るい。


長テーブルの一端には若い男性が座っている。金縁の眼鏡の奥の瞳は沈着で聡明、黒いスーツは一分の隙もない。助手が資料を整理している。


玲子は濡れてみすぼらしい姿で現れ、瞬時に視線を集めた。


「御社の社員は…こんな格好で商談を?」男は眼鏡を押し上げ、明らかに不信そうに尋ねる。「つまり、御社は今回の案件を重視していないと受け取っていいですか?」


玲子は不快感を抑え、前に進み毅然と答える。「いいえ、むしろ逆です。大切な案件だからこそ、トラブルが起きてもすぐに駆けつけました。藤原社長をお待たせしたくなかったのです。」


男――藤原雅人はしばし玲子を見つめ、明らかに動揺した。


「君…どこかで会ったことがあるような。」藤原は眉をひそめて首をかしげる。


「え?」突然の転調に玲子は戸惑う。ナンパのセリフなんていくらでも聞いてきたが、「どこかで会ったことが」なんて今さら古臭い。今は商談が大事。


すぐに気を取り直し、玲子はプロらしい微笑みで答える。「はじめまして、藤原社長。水野玲子と申します。本件の担当をしております。」


藤原は我に返り、淡々と名乗った。「藤原雅人です。」


資料に目を通す時間もなく、玲子は重要な質問に何度も答え損ねる。


藤原の視線が何度も玲子を計るように動く。


「残念ですが…」藤原雅人は淡々と話すが、唇は固く結ばれ、態度は明らかだ。「御社に十分なプロ意識も誠意も感じられません。」


「申し訳ありません…」玲子の頬が熱くなり、羞恥に身を縮める。


藤原は助手に合図し、退室しようとする。


「藤原社長!」焦った玲子は思わず彼の袖を掴んだ。「どうか、もう一日だけ時間をください!必ず納得のいくご提案をします!」


高級な生地に手が触れ、玲子は慌てて手を離す。


その様子は藤原の目にもしっかり映っていた。レンズ越しの鋭い視線が玲子の赤くなった顔を射抜く。


「すみません……」玲子は気まずくうつむく。


藤原雅人はしばらく沈黙し、玲子の顔をじっと見て言った。「いいでしょう。あと一日だけ。もし明日、もっとプロフェッショナルな提案を持って来られたら、交渉を再開しましょう。」


玲子は耳を疑った。上司は興奮して深々と頭を下げる。


藤原が立ち上がり、エレベーター前まで玲子は二人を見送った。


エレベーターを待つ間、藤原雅人は玲子の方を向き、断りにくい口調で言う。

「今夜、水野さんと食事をご一緒できませんか?」


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