「これがあなたの限界?」白石の威圧的な態度が、玲子の抑えつけてきた怒りに火をつけた。朝の濡れ衣、今の露骨な嫌がらせ、濡れた服が肌に張りつき、身を切るような寒さ。しかし、その冷たさよりも胸の怒りの方が遥かに熱かった。
どうせ濡れ衣を着せられるなら、その罪を本当にしてやろう!
そう決意し、玲子は一切の迷いなく、手を振り上げて白石の頬を思いきり叩いた!
乾いた音が響き渡る。白石は頬を押さえ、目を見開き、甲高い声で罵った。「このくそ女!私に手を出すなんて…今すぐ航に訴えて、あんたをクビにさせる!」
骨の髄まで冷えたが、玲子の心には破れかぶれの覚悟が湧き上がる。耐えるくらいなら、いっそすべて燃やしてしまえ――あの忌々しい契約ごと。
「叩いた?ふん」玲子は冷笑し、さらに力を込めて、「人としての道を教えてやってるのよ!」
甘やかされて育った白石が敵うはずもない。玲子は彼女の襟首を掴み、無理やり洗面台の方へ引きずり、勢いよく頭を水道の流れに押し付けた!
「離して!くそが!絶対に許さないから!」白石は悲鳴を上げ、水が彼女の髪と顔半分を濡らす。
突然、強い力が玲子を引き剥がし、壁に叩きつけた!
「ドン!」肩甲骨が冷たいタイルにぶつかり、激痛で目の前が暗くなる。隣の鉢植えが床に砕け、陶器の破片が飛び散り、むき出しの足を切った。
水野玲子は荒く息をつき、足の痛みを無視して顔を上げた――神崎が険しい表情でドア口に立っていた。
ふん、タイミングがいいものね!
神崎は彼女の手首をつかみ、怒りを抑えきれない目で言った。「謝れ。」
「どうして?」玲子はその手を振りほどき、赤くなった手首を揉みながら、皮肉っぽく口元を吊り上げた。「彼女が最初に罠を仕掛けたのよ?彼女の悪事は許されるのに、私が反撃するのはダメ?」
白石はすぐに神崎に寄り添い、か弱い声で言う。
「航、もういいの…私は大丈夫だから…」
神崎航は苛立ってネクタイを緩め、白石の「寛大さ」を無視して、氷のような視線を玲子に投げる。
「最後通告だ。謝るか?」
「謝るなら、まず彼女が!」玲子は腕を組み、まったく引く気配がなかった。
この時の玲子は、みすぼらしいが、息を呑むほど美しかった。濡れた白いシャツは鎖骨から胸元までのラインを浮き上がらせ、タイトなスカートが体にぴったりと張りつき、しなやかなシルエットがかすかに見える。背筋を伸ばし、濡れた髪が頬に張りつき、まるで嵐の中でも枯れない花のようだ。
神崎航の視線がわずかに揺れる。喉仏が動いた。
「業界で干されるぞ。国内の一流企業は誰もお前を雇わない羽目になる。」
その脅しは無情で、直接的だった。本社を出てまだ経ってないのに、もう他人に手を出すとは。今日の相手が白石美咲だったからまだいいが、もし違う相手だったらどうするつもりだ。そんな考えが神崎を苛立たせ、最近やたらと玲子を思い出してしまう自分に腹が立った。彼の周囲の空気が重くなる。
「いいわ、干せば?」玲子は顎を上げ、虚勢の笑みを浮かべて背を向けた。
「待て。」命令のような声が響き、神崎の視線が彼女の濡れた背中をなぞる。
玲子は立ち止まり振り返る。涙で視界がぼやけ、その顔はかつて夢にまで見た彼なのに、今は酷く憎らしい。こんなにも彼と知り合ったことを後悔したのは初めてだ。
「謝れ。」またその二文字。
「立派な神崎グループの社長さんが、女のことで見境なくなるなんて!」玲子は声を震わせ、嗚咽をこらえ、「もうあなたみたいな分別もわからない人の下にはいたくない!私は自分の力を信じてる。たとえ神崎グループを出ても、死ぬことはない!」
その言葉は場に響き渡り、周りで見ていた社員が息を呑む。噂の「愛人」はこんなにも強気なのか?神崎は紛れもなくビジネスの天才、数年で神崎グループの規模を拡大させた、その実力は疑いようがない。なのに「分別もわからない」と罵倒されるとは。
玲子の涙が頬を伝い落ちるのを見て、神崎の手が無意識に白石の肩を強く握った。苛立ちはさらに強くなる。
「水野玲子、契約条項を読み直せ。」
神崎の声は感情が読み取れない。
白石は彼の表情の変化に気づき、二人を交互に見つめ、不安が募る。
「昨日、山本茂が俺に言ってきた。」神崎は話題を変え、皮肉な声で言う。「お前を渡せば、昔の借りは全部チャラにするって。選べ。俺に引き渡されるか、謝るか。」
玲子は体をこわばらせ、半歩後ろに退いた。白石は勝ち誇ったような視線を送る。
「航!この女に跪いて謝らせて!」白石は甲高い声で言い放つ。
玲子が言い返そうとした瞬間、慌てた声が飛び込んできた。
中村が走り込んでくる。「社長、本社から緊急連絡です!『サザンベー』のクライアントが予定より早く到着しました、お戻りください!」
「実力を証明したいんだろ?」神崎航は玲子を見据える。「『サザンベー』を取ってこい。それで謝罪は帳消しだ。」
「契約解除もしてよ!」玲子はすかさず返す。
答えを待たず、彼女は背筋を伸ばし、濡れたままの背中を向けて歩き去った。
会議室は広く明るい。
長テーブルの一端には若い男性が座っている。金縁の眼鏡の奥の瞳は沈着で聡明、黒いスーツは一分の隙もない。助手が資料を整理している。
玲子は濡れてみすぼらしい姿で現れ、瞬時に視線を集めた。
「御社の社員は…こんな格好で商談を?」男は眼鏡を押し上げ、明らかに不信そうに尋ねる。「つまり、御社は今回の案件を重視していないと受け取っていいですか?」
玲子は不快感を抑え、前に進み毅然と答える。「いいえ、むしろ逆です。大切な案件だからこそ、トラブルが起きてもすぐに駆けつけました。藤原社長をお待たせしたくなかったのです。」
男――藤原雅人はしばし玲子を見つめ、明らかに動揺した。
「君…どこかで会ったことがあるような。」藤原は眉をひそめて首をかしげる。
「え?」突然の転調に玲子は戸惑う。ナンパのセリフなんていくらでも聞いてきたが、「どこかで会ったことが」なんて今さら古臭い。今は商談が大事。
すぐに気を取り直し、玲子はプロらしい微笑みで答える。「はじめまして、藤原社長。水野玲子と申します。本件の担当をしております。」
藤原は我に返り、淡々と名乗った。「藤原雅人です。」
資料に目を通す時間もなく、玲子は重要な質問に何度も答え損ねる。
藤原の視線が何度も玲子を計るように動く。
「残念ですが…」藤原雅人は淡々と話すが、唇は固く結ばれ、態度は明らかだ。「御社に十分なプロ意識も誠意も感じられません。」
「申し訳ありません…」玲子の頬が熱くなり、羞恥に身を縮める。
藤原は助手に合図し、退室しようとする。
「藤原社長!」焦った玲子は思わず彼の袖を掴んだ。「どうか、もう一日だけ時間をください!必ず納得のいくご提案をします!」
高級な生地に手が触れ、玲子は慌てて手を離す。
その様子は藤原の目にもしっかり映っていた。レンズ越しの鋭い視線が玲子の赤くなった顔を射抜く。
「すみません……」玲子は気まずくうつむく。
藤原雅人はしばらく沈黙し、玲子の顔をじっと見て言った。「いいでしょう。あと一日だけ。もし明日、もっとプロフェッショナルな提案を持って来られたら、交渉を再開しましょう。」
玲子は耳を疑った。上司は興奮して深々と頭を下げる。
藤原が立ち上がり、エレベーター前まで玲子は二人を見送った。
エレベーターを待つ間、藤原雅人は玲子の方を向き、断りにくい口調で言う。
「今夜、水野さんと食事をご一緒できませんか?」