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第9話 思いがけない誘い


水野玲子はまだ返事を考えている最中だったが、背後から鋭く否定する声が響いた。

「あいにく、彼女は空いていません。」

いつの間にか神崎が現れ、険しい表情を浮かべていた。

その言葉に玲子の反発心がかえって刺激された。空いていないと言われた?なら、絶対に行ってやる!

「藤原社長にお声をかけていただき光栄です。時間と場所はそちらにお任せします。必ず伺います。」

彼女は藤原に向き直り、はっきりとした口調でそう答えた。


藤原一行が去った後、神崎の顔は完全に氷のように冷たくなった。

彼は勢いよく玲子の手首を掴もうとしたが、彼女はそれをきっぱりと振り払った。

「社長、ご自重ください。私はもうあなたの秘書ではありません。」

玲子は一歩下がり、距離を取った。

神崎は自分の振り払われた手を見つめ、全身から圧がにじみ出る。今まで、こうも公然と自分に逆らった女性はいなかった。白石美咲ですら、彼の顔色をうかがっていた。なのに、水野玲子だけは、どんどん大胆になっていく!

「水野、今日の選択を覚えておけ。後悔するなよ。」

彼は氷のような声でそう言い残し、背を向けて去っていった。


午後

美羽の家に戻った玲子は、夜の約束に着ていく服を選ぶためクローゼットを開けた。

服を選びながら、またもや神崎の怒りに満ちた顔が脳裏をよぎり、思わず小声で呪いの言葉を吐いた。

「クソ野郎、早く倒産してしまえ!」

悪態をついた後、深呼吸して無理やり気持ちを落ち着かせる。今夜は何よりも大切だ。「サザンベー」とのプロジェクトを必ず手に入れ、神崎からの鎖を断ち切り、自由を取り戻さなければ。


約束の時間、約束の場所。

水野玲子はレストランの入り口に立ち、冷たい夜風を深く吸い込んで気持ちを整えてから、中へと足を踏み入れた。

道路の向かい側、黒いロールスロイスが暗がりに潜んでいる。

車内で神崎は、回転ドアの向こうに消えていく彼女の華奢な背中を見つめ、目を深く曇らせた。次の瞬間、彼は携帯を助手席へと投げつけ、鈍い衝突音が響いた。

(この女、まったく、いい度胸じゃないか!)


レストランは最上階にあり、ロマンチックな雰囲気が売りの上品な空間。

案内係が水野玲子をプライベートな小さな個室へと導く。部屋は広くないが、内装は洗練されていた。大きな窓の外には、きらめく夜景が広がっている。

藤原雅人はすでに着席しており、窓の向こうのネオンを背に静かに座っていた。メガネ越しの視線は穏やかだが、彼女が入って来たとき、少しだけ観察するように目を上げた。


玲子は心の中で比べてみた。同じく強いオーラを持つ上司でも、藤原雅人には内に秘めた落ち着きと、どこか距離を取る穏やかさがある。それに対し、神崎航は鋭く、威圧的で、まるで抜き身の刃のようだ。


「藤原社長。」玲子は礼儀正しく会釈した。

藤原雅人は立ち上がり、紳士的に彼女の椅子を引いた。

「どうぞお気になさらず。もしよければ、雅人と呼んでください。」

あまりに親しげな呼び方に、玲子はさすがに応じず、すぐに本題に切り込んだ。

「藤原社長、『サザンベー』プロジェクトの資料について……」

これは神崎航から抜け出す唯一のチャンス、絶対に失敗できない。

「約束したことは必ず守る。」

藤原雅人は分厚い資料の入った封筒を彼女の前に差し出した。

「これがプロジェクトの詳細資料だ。まずは目を通してみて。」

玲子の心は熱くなった。神奈川支社では孤立無援で、幹部たちは神崎航や白石美咲を恐れて重要な資料など渡してくれなかった。この資料は、まさに救いの手だった。

「ありがとうございます!」

彼女は重みのある封筒を受け取り、心から感謝した。


藤原は彼女を見つめ、ふと話題を変えた。

「神崎航……君にひどいことをしているのか?」

その名前は棘のように、瞬時に玲子の胸に刺さった。彼女は息が詰まりそうになりながらも、平静を装い首を振った。深くは語りたくない。

「今後、何か困ったことがあれば教えてください。できる限り力になります。」

藤原雅人の口調は穏やかだが、その真剣さが伝わってくる。

まるで兄のような優しさにも聞こえる。しかし玲子は知っていた。ビジネスの世界に無償の善意などない。藤原が自分に特別に目をかけるのは、必ず何か理由があるはずだ。ただ、今はまだ彼の目的が見えない。


食事中、玲子はどこか落ち着かない気持ちだった。

彼女は席を立ち、トイレへと向かった。

照明にてらされ、鏡に映る自分の顔は、相変わらず小さく整っているが、五年前の初々しさは消え、眉間には芯の強さと、かすかな疲れがにじんでいた。

この顔は、かつて神崎を惹きつけた始まりだった。そして自分もあれが愛のサインだと勘違いした……。

くそっ!また彼のことを思い出してしまった!

玲子は冷たい洗面台に両手をつき、頭を大きく振った。あの男の影を完全に振り払うように。深呼吸して気持ちを整え、トイレを出る。

曲がり角を出た瞬間、不意に誰かとぶつかってしまった——。


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