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第16話 暗流


次の瞬間、神崎はすでに玲子の目の前まで歩み寄っていた。

端正な顔立ちに怒りを帯びた表情が間近に迫り、冷たい声が響く。

「水野、お前は顔だけで人を選んでいるのか?」


玲子の足は止まらなかったが、その声ははっきりと聞こえた。意図的な落ち着きと、かすかな嘲りが混じっている。

「社長が“満足できる人を探せ”と言ったんですよね?どうですか、私が選んだ人、気に入らないんですか?」


この高橋は、白石美咲にそっくりだった。

神崎の眼差しが突然鷹のように鋭くなり、玲子の手首を正確に掴み、彼女を無理やり立ち止まらせて振り向かせた。二人の距離は一気に縮まり、低く抑えた声で、他の誰にも聞こえないくらいの音量で問い詰める。

「婚約のことで、俺を責めているのか?」


玲子はひるむことなく、彼の目に渦巻く嵐を真っ直ぐに見返した。手首の痛みに眉をひそめるが、冷静だ。

「社長の誤解です。」


わざとだ――その確信が神崎の心の中で膨れ上がる。彼女はそんなに早く俺のもとから離れたいのか?しかも、代わりの女まで押し付けて――?!


「離して!」

玲子は強くもがき、手首が赤く染まる。


だが、神崎はさらに力をこめ、決然とした声で宣言した。

「絶対に無理だ!俺たちの関係は、俺が決める。お前に終わらせる資格はない!」


彼女の目元が赤くなり、鼻先がかすかに震えるのを見た瞬間、神崎の手の力が一瞬だけ緩んだ。


玲子はその隙を逃さず、必死に彼の手を振りほどくと、痛む手首を押さえ、振り返ることなく素早く駆け出した。その背中には、決然とした覚悟がにじんでいた。


玲子は速足でエレベーターへ向かった。手首には、彼の大きな手の熱と痛みがはっきりと残っており、さっきのやり取りを鮮明に思い出させた。


エレベーターが下がると同時に、携帯が鳴った。藤原からだった。

「水野さん、ちょうど近くにいるので、送っていきましょうか?」

彼の声は穏やかだった。


プロジェクトの件で心が荒れていた玲子は、断らなかった。

「ありがとうございます、藤原社長。お世話になります。」


高橋は寂しげに後ろに立っていた。先ほどの社長とその面接官の間に漂う、他人には入り込めない空気に背筋が凍った。二人の並々ならぬ関係を敏感に察しつつも、強烈な誘惑の前に不安を押し殺した。

「社長、あの……」

彼女はおずおずと声をかけ、気を引こうとした。


だが、神崎はどこか虚ろな表情でシャツの襟元を乱暴に引っ張り、円には目もくれず、冷たい口調で言い放った。

「秘書課と業務フローの打ち合わせをしてこい。」


「は、はい!」

高橋は慌てて返事し、怯えと抑えきれない喜びを胸に、足早に社長室を出ていった。二人の関係がどうであれ、彼のそばにいられるなら、いつかチャンスが巡ってくる――そう信じて。


社長室は静まり返った。

神崎は大きな窓辺に歩み寄り、冷たい手すりに手をつき、眼下の華やかで小さな都市を見下ろす。伏せたまぶたの隙間から、玲子がビルを出て黒い車に乗り込む姿が見えた。窓が下がり、運転席には藤原が座っている。


言いようのない苛立ちと怒りが胸にこみ上げ、神崎は拳を握りしめた。

「たかが一人の女だろう!」

そう自分に言い聞かせても、心のもやはどうしても晴れなかった。

彼は手すりを思いきり蹴りつけ、鈍い音が社長室に響き渡った。


――車内。


玲子はシートにもたれ、疲れたように眉間を押さえた。

「藤原社長、この間は本当にありがとうございました。」

プロジェクトの結果がどうあれ、彼が与えてくれたチャンスと助力は本物だった。


「大したことありません。お気になさらず。」

藤原は優しく微笑み、真剣な口調で尋ねた。

「もしよければ、藤原グループに来ませんか?」


思いがけないスカウトに、玲子はわずかに戸惑う。

「藤原社長、それは神崎財閥から引き抜こうとしてるんですか?」

冗談めかして返そうとした時、突然、携帯のけたたましい着信音が鳴る――画面には「神崎」の名前が点滅していた。


玲子の笑顔は一瞬で消え、何の迷いもなく、指先で通話を切った。

車内の空気が一瞬凍りつく。

藤原は、彼女の感情の急な変化と拒絶を敏感に察し、眉をひそめたが、それ以上は何も聞かず、自然に話題を変えた。


――数日後。


玲子は新しい住まい探しを始めていた。美羽の家に居候するのも、いつまでも続けられない。

プロジェクトは神崎によって横取りされ、神奈川支社の空気もますます重苦しくなっていた。

その日、次長が資料を机に乱暴に投げつけ、嫌味な声で言う。

「水野、午後は南郊の新しい現場を下見してこい。報告書は早めに出せ!」

工事現場は辺鄙で環境も悪い。明らかに彼女への嫌がらせだった。


玲子は反論せず、黙って資料を受け取った。この仕事を契約期間が終わるまで続けるためには、どんなに辛くても耐えるしかない。


この情報はすぐ本社に伝わった。


「社長、水野秘書が支社から南郊の新しい現場に視察に行かされました。」

田中の報告する声は低く、緊張がにじんでいた。


「何だと?!」

神崎は書類から顔を上げ、鋭い目つきになる。

「誰の許可でそんなことを?!あんな工事現場に秘書一人で行かせてどうするつもりだ!」

彼は、玲子のようなか弱い秘書が現場に飛び込む姿を想像し、強い焦りと不安に駆られた。


「チケットを取れ!今すぐだ!午後の便で!」

神崎は立ち上がり、決断を下す。


列車が到着すると、彼はホテルにも寄らず、南郊の現場へ直行した。

仮設のプレハブ事務所で、現場監督に呼び戻された玲子をようやく見つけた。

彼女は明るい黄色のヘルメットをかぶり、白い顔には何本かの泥の跡がついていた。


「神崎社長?」

玲子は目の前に現れた彼に驚く。

「どうしてここに?」


神崎は立ち上がる。高級なスーツは簡易な事務所には不釣り合いで、襟元のボタンが二つ外されている。いつもの冷静さと違い、どこか苛立ちと疲れがにじんでいた。

「出張だ。」

鋭い眼差しで彼女の全身をくまなく見て、怪我がないことを確認すると、固くなった顎がわずかに緩んだ。


「出張で、私に何の用?」

玲子は困惑し、隠しきれない疲れが表情ににじむ。


神崎は一歩近づき、強い圧迫感で彼女の小さな空間を支配した。

「自分の立場を忘れたのか?」

低い声が詰問する。


玲子は無意識に指を握りしめ、指先が白くなる。

声は小さいが、はっきりと、どこか覚悟の色が漂う。

「忘れてません。ただ……契約ももうすぐ終わりますよね?」


神崎の目に再び嵐が巻き起こる。さらに一歩詰め寄り、二人の距離は呼吸が感じられるほど近くなった。

彼はわずかに身を屈め、温かくも危険な吐息が彼女の耳をかすめる。意図的に声を低くし、一語一語を噛みしめるように囁いた。


「ん?水野秘書、さっき……何て言った?もう一度言ってみろ。」


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