この言葉、他の人に向けられたのなら、たいていは素直に受け入れるだろう。
だが、今の相手は神崎航だった。彼は唇の端に冷ややかな笑みを浮かべ、玲子を見る目に薄い怒りを滲ませていた。
しばし静寂が流れた後、彼はネクタイを整え、突然立ち上がった。
「お開きだ。俺の勘定にしてくれ。」
玲子は、これでやっと厄介ごとが終わったと、ほっと息をついた。
だが、その瞬間、男が振り返り、視線を藤原雅人に定めた。「藤原様、あんたの連れは帰らせないぞ?」
雅人はやんわり断ろうとしたが、玲子がそっと彼の腕を引いた。
自分のことで雅人が航と険悪になる必要はない。
玲子はうっすらと目を開け、気だるげな口調で言った。「もちろん約束は守るわ。神崎社長の“ご要望”通りに。」
人々は次々と部屋を後にし、雅人も別れの挨拶をして出ていった。
個室には、吉田和也だけがまだ事態を飲み込めずにいた。
この席は、航が急遽招集したものだった。珍しく彼から誘ってきたものだから、皆も喜んで集まったのだ。
まさか、接待の相手が雅人だとは思わなかった。
「まだわからないのか? 藤原さんの隣の女、見覚えない?」井上流星が苛立ち気味に言う。「あれはうちの神崎社長の元秘書だぞ!」
吉田和也はハッと額を叩いた。
航とあの“伝説の秘書”の話は、仲間内で何度も噂になっていた。
「終わった……俺、明日も生きていられるかな?」彼はソファに崩れ落ち、うめいた。
玲子は航と高橋円と共に個室を出ると、ドアの前に停まっているロールスロイスが目に入った。
「神崎社長は車をお持ちなのに、どうして私が送らなきゃいけないの?」玲子は愛想なく腕を組み、「失礼するわ」と言い残して背を向けた。
「玲子先輩!」高橋円が細いヒールで駆け寄り、玲子の手を取って親しげに言った。「こんな遅い時間、一人じゃ危ないです。」
玲子は心の中で冷笑した。危ない?自分じゃ、夜中に路上で放り出されるなんて、一度や二度じゃない。
だが、高橋円とは面接で一度会っただけで、人柄もよく知らない。あからさまに冷たくするのも気が引ける。
玲子は手を振り払った。「大丈夫。それに送るなら…」車の窓越しに航と冷たい視線を交わし、鋭く続けた。「神崎社長がいるじゃない。」
高橋円は困った表情で言った。「玲子先輩、私……一人だと怖いです。」
怖い?玲子は少し驚いた。
もしかして、航に何かされることを恐れているのか?それもあり得る。
高橋円の役目は、秘書だけでなく、かつての自分の裏の役を引き継ぐことも含まれているのだから。
何とも言えない感情が玲子の胸にこみ上げ、苦く切なかった。
これは、罪悪感?
もしそうなら、自分が高橋円を火の中に突き落としたことになる。
「……分かったわ。」玲子はついに折れた。
航は、彼女が車に乗ることを予想していたかのようだった。二人が後部座席に落ち着くと、無表情でエンジンをかけた。
玲子はまだどこかぼんやりしていた。
高橋円が今後どんな立場に置かれているか、考えが及ばなかったのだ。
その事実に気づくと、高橋円の目を見ることさえできなかった。
そして航を見れば、ますます心が乱れるばかり。
高橋円はかつて玲子が住んでいた高級マンションに引っ越していたため、道のりは短かった。
間もなく、彼女は車を降りて家へと帰っていった。
玲子は、その小さな背中が廊下に消えていくのを見送り、胸が重くなった。彼女も自分と同じ道を歩むのだろうか。
だが、井の中の蛙、大海原を知らず。
かつての自分も、今の高橋円も、何も知らずに深い淵へと足を踏み入れていた。
航への嫌悪は、すでに生理的な拒否反応へと変わっていた。
玲子はドアを開けようとしたが、「カチッ」という小さな音がして――ドアはロックされてしまった。