神奈川県東区、第七拘置所。
重い鉄の扉が「ガシャン」と音を立てて開く。墨村慎吾は古い釈放袋を手に、扉の枠の中で孤独な影を落としていた。外には、無機質なラインの黒いベントレーが静かに停まっている。
ドアが開き、グレーのスーツに細身のフレームの眼鏡をかけた若い女性が足早に近づいてきた。彼女は星野興産株式会社社長・冷泉千尋の秘書、小山靖子だ。
「墨村さん。」小山靖子は落ち着いた声で手招きする。「車にどうぞ。冷泉社長が宿を手配しています。」
墨村は空席の後部座席に目をやり、口元に薄い笑みを浮かべた。「小山さん、相変わらずお変わりないですね。千尋は?忙しくて来られないのかな?」
靖子は眼鏡を押し上げながら答える。「冷泉社長は重要な国際M&Aの会議中です。私が迎えに来るようにとのことです。ホテルの準備もできていますので、どうぞ。」
「千尋に電話はできる?」
ごく普通の願いだったが、きっぱりと拒絶された。
「申し訳ありません。会議中、冷泉社長は連絡を望んでいません。お乗りください。」靖子の口調は揺るぎない。
墨村はじっと彼女を見つめるが、それ以上は何も言わずベントレーに向かった。冷たい車体を指先でなぞり、苦笑する。「ベントレーに乗り換えたとは…三年で冷泉社長も出世したものだ。」
車内は静寂に包まれたまま、やがて神奈川県屈指の高級ホテル「星の宿ホテル」に到着。靖子が彼を最上階のスイートルームまで案内する。
ドアを開けると、そこは既に空ではなかった。リビングにはスーツ姿の弁護士が男女三人、テーブルには書類が積まれている。
「墨村さん。」小山靖子が示す。「着替えもご用意しています。まずはお風呂でお疲れを癒してください。その後でお話ししましょう。」
この状況が何を意味するのか、墨村にはすぐに分かった。無表情のままうなずき、浴室へと向かう。
三十分後、彼はさっぱりとしたダークカラーのカジュアルウェアに着替え、背筋の伸びた姿で現れた。190センチ近い長身、彫りの深い端正な顔立ち、特にその目にはどこか反抗的な光が宿る。
彼はソファの脇に座り、ミネラルウォーターを一口飲みながら、静かに全員を見渡した。「要件をどうぞ。」
靖子は書類を手に取り、彼の前に差し出す。「こちらが冷泉さんとの離婚協議書です。西区の邸宅はあなたに譲渡され、都心の一等地にある店舗が二つ、さらに現金800万円が一括で支払われます。」
「これにサインすれば、これからの生活には困りません。」と靖子。「他にご要望があれば、こちらの弁護士にご相談ください。」
申し分ない条件だった。
墨村は協議書を手に取り、書類の感触を確かめながら微笑む。「つまり、選択肢は“同意”しかない、と?」
靖子は冷静な目で答える。「そう考えていただいてかまいません。前科がある以上、冷泉社長や会社のイメージに悪影響です。三年も経てば、すべてが変わるものです。円満に別れるのが最善です。」
「汚点か。」墨村は低く笑う。「その“汚点”が誰のためだったか、冷泉はよく分かっているはずだ。これが俺の“報酬”か?たった一枚の紙切れで?」
靖子は表情を変えずに言う。「三年で一千万円相当の資産、十分な補償かと。執着しても意味はありません。」
「揉めるだけ損です。きれいに別れておけば、今後もし何かあれば冷泉社長も配慮するかもしれません。争っても、あなたの得にはなりませんよ。」彼女の言葉は淡々としているが、計算高い。
「“十分な”補償、“円満離婚”ね。」
墨村の笑みが消え、目に冷たい光が宿る。彼は協議書をテーブルに投げ戻した。
「サインはする。」彼は立ち上がり、きっぱりと言う。「ただし、冷泉本人に来てもらえ。」
「俺たちのことを、他人が口出す筋合いはない。弁護士?資産?そんなものどうでもいい。彼女本人が来るなら、俺は一銭もいらない。すぐにサインする。」
そう言い残し、部屋へ戻った。
十分後、ノックの音。
「墨村さん、冷泉社長がお見えです。」
墨村はドアを開け、リビングへ向かう。そこには冷泉千尋が立っていた。高級な黒のロングドレスが白い肌を引き立て、首元にはダイヤモンドが輝く。変わらぬ美しさだが、その顔には氷のような冷たさしかない。
「来たわ。サインして。」挨拶もなく、冷たいひと言。
墨村は向かいに腰を下ろし、真っ直ぐ見据える。「つまり、この三年の刑務所生活と平凡な日々じゃ、もう今の君には釣り合わないってことか?」
冷泉は彼の視線を受け止め、口を開く。「そう思うなら、そうでいいわ。人は変わるものよ、墨村慎吾。もう私たちは別の道を歩んでる。円満に終わらせましょう。…ごめんなさい。」
「ごめん、だと?」墨村は協議書を手に取り、指が白くなるほど力を込める。「三年の時間、三年の自由、それがたった千万円で取り戻せると思うのか?」
「ましてや俺の気持ちは?」彼の目に激しい感情が浮かぶ。「冷泉千尋――星野興産の社長で、数十億の資産を持つ君にとって、俺の想いはそんなに安いものだったのか?」
「つまり、今の俺じゃ、君には釣り合わないと?」
冷泉は一度目を閉じ、再び開けた時には決意だけが残っていた。「もし侮辱したいだけなら、意味はないわ。サインしなくてもいい。でも、この結婚は終わりよ。弁護士が手続きを進めるから、今後もう会う必要はない。」
彼女は背を向け、去ろうとする。
「待て!」
墨村はペンを取り、「サッ、サッ、サッ」と素早くサインをする。すぐに書類を靖子に手渡した。
「サインはした。」
冷泉の固まった背中を見つめ、はっきりと言う。
「金も財産も、全部いらない。君の望み通り、これで終わりだ。もう二度と関わることはない。」
冷泉千尋の肩がほんの僅かに震えたが、振り返ることなく、ヒールの音だけが遠ざかり、やがて消えていった。
豪華なスイートルームに、墨村慎吾は一人残された。大きな窓の向こうには華やかな都会の景色、まぶしい陽射し。ソファに座った彼の背中は孤独に沈み、顔には計り知れない疲れと虚しさがただよっていた。
「ブー…ブー…」
ポケットの古いスマートフォンが不意に震える。
墨村は眉をひそめる。出所時に返されたこの携帯の番号を知る者はほとんどいない。誰だ?
画面には見知らぬ番号。
応答ボタンを押す。
言葉を発する前に、泣きそうな、切羽詰まった声が響いた。
「もしもし…神の手を持つ医者、墨村様ですか?」