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第2話 捨て駒の影

「神の手を持つ医師、だって?」

墨村慎吾は眉をひそめ、冷ややかに言った。「間違い電話だ。俺じゃない。」

そう言い終えると、電話をさっと切った。


同じ頃、神奈川県の高級住宅街。

万川財閥の会長・万川隆。財界で名を馳せる大富豪の彼が、今はまるで迷子の子供のようにスマートフォンを握りしめ、不安げな表情を浮かべていた。

「間違い、だと?」隣に控える、五十代ほどで落ち着いた雰囲気の男に目を向ける。「忠、本当に番号は合ってるのか?」

万川忠は恭しく頷いた。「会長、間違いありません。この番号は、会長のご縁と私があちこち手を尽くして、やっと千葉翁から譲っていただいたものです。千葉翁も特別に念を押していました。墨村様は自分を“神の手の医者”などとは決して言わないし、滅多に診察もしないと。……もう一度、かけ直しましょうか?」

万川隆は大きく息を吸い込み、消えそうな希望を目に浮かべながら答えた。「わかっている。名医にはそれぞれの矜持がある。だが、父さんはもう待てないんだ!命さえ助かれば、墨村先生のご希望は何でも叶える。財産すべて差し出しても構わない!」

もう一度番号を押し、今度は切られる前に必死に訴えた。

「墨村先生!どうか父を助けてください!どんな条件でもお受けします!千葉翁に…千葉翁に教えてもらった番号です!どうか、チャンスをください!」


ホテルの一室で、墨村慎吾は「千葉翁」の名を聞くと、しばし沈黙し、やがて静かに口を開いた。

「千葉翁が番号を渡したということは、よほど深い関係か、相当な代償を払ったかだな。でもあの人は分かっている。この番号を渡すたび、俺にまた一つ借りを作ることになると。」

声色からは感情が読み取れない。「行ってみよう。ただし、最初に言っておくが、助けられるとは限らない。」


電話口の向こうで、万川隆は感極まって声を震わせた。「ありがとうございます!本当にありがとうございます!先生、今どちらに?すぐに車を手配します!」

「まだやることがある。住所を送ってくれ。三日以内に伺う。」

またしても電話は切られた。


広いスイートルームに静けさが戻る。墨村慎吾は窓際に立ち、眼下の小さな人々を見下ろした。

「冷泉千尋……冷泉千尋……」

彼はその名を低く繰り返し、ほろ苦い笑みを浮かべた。

「本当に……俺は君にふさわしくないのか?」


「愛だの何だのと言って、君の代わりに服役した三年間。その間、裏社会の大物たちに頭を下げ、陰ながら君を守り支えた……」

「三年後、君はスターリンクのクイーンになり、俺はただの汚点扱いか。」


彼は顔を上げ、ガラス越しに果てしない空を見つめる。

「だが、俺は……最初からただの蟻ではない。」

「その気になれば、天に昇って龍にもなれるし、地上に神として君臨することだってできる。君にも一緒にこの世界を見下ろすチャンスがあったのに……」

「君は自分の手で俺を切り捨てた。」


墨村慎吾の目が鋭く細められ、冷たい光を帯びる。

「千尋、君が誇りにしているすべては、実は俺が築いた土台の上にあると知った時……」

「一生かけても俺の背中に追いつけないと悟った時……」

「君は泣くのか?」

「その時の君の表情を、見てみたいものだ。」


一方、ベンツの車内は重苦しい空気に包まれていた。

冷泉千尋は流れる街並みをぼんやりと眺め、やがてかすかな迷いを含んだ声でつぶやいた。

「靖子……私、間違ってないかな……?」

小山靖子は即座にきっぱりと答える。「社長、決断は正しかったです。お互いのためにも最善です。墨村慎吾には特別なところはなく、もともとあなたには釣り合いません。それに、前科のある男なんて……補償も十分渡したのですから、もう何も背負う必要はありません。彼が平凡すぎた、それだけのことです。社長の足を引っ張るだけですよ。」

少し間を置いて、さらに冷たく言い切った。

「価値のない男に心を砕く必要はありません。離婚したのですから、きっぱり忘れましょう。」


千尋は最後の迷いも消えたように小さく頷き、自分に言い聞かせるように言った。

「そうね、私と彼はまるで月とスッポン。彼の存在は、私の格を下げるだけ。スターリンクのイメージにも悪影響だわ。」

「ここ数年、事業もうまくいって、多くの有力者が力を貸してくれている。もし彼が前科者だと知れたら……」

一瞬だけ決意の色を瞳に宿し、

「他にもいろいろ考えれば、選択肢なんてなかった。補償も渡したし、もう終わり。彼が平凡すぎるのがいけないの。しかも……刑務所帰りだし。」


彼女は完全に後ろめたさを捨て去った。


その時、スマートフォンがけたたましく鳴る。「冷泉亮」と表示されたのを見て、千尋は少し眉をひそめながらも電話に出た。

若く、どこか攻撃的な声が真っ先に響く。

「姉さん!あの前科者と離婚したんだろ?アイツ、まだ金をたかろうとしてない?俺がいるから大丈夫だよ。コテンパンにしてやる。思い知らせてやるからな!」

千尋は釘を刺すような口調で返した。

「亮、もう彼はサインしたの。余計なことしないで。あなたが万川財閥の忠さんと何かしてるのは知ってるけど、お願いだから問題を起こさないでよ、いい?」

「サイン?姉さん、まさか大金渡したんじゃないだろうな?何百万?それとも何千万?納得できない!俺、あなたの弟だよ?俺にそんな金くれたことないくせに!それは冷泉家のお金だぞ!あんな奴にやるなんて許せない!全部取り返してやる!」

千尋が何か言う前に、電話は一方的に切られた。


彼女は小さくため息をつき、スマートフォンを脇に置くと、小山靖子に淡々と指示した。

「亮のところへ行って、見張ってて。変なことをしないように。」


その口調は、まるで取るに足らない日常の一コマを語るかのようだった。

彼女にとって、墨村慎吾の身に降りかかるかもしれない災難など、弟の機嫌のほうがはるかに重要に思えるのだった。

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