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第18話 威圧

墨村慎吾が病室の扉の前に現れると、その場の空気が一瞬で凍りついた。


白鳥健一郎と美恵子は、思わず息を呑む。まさか「あの男」が自ら姿を現すとは思ってもみなかったのだ。そして、ベッドに横たわる絢が慎吾の姿を見た瞬間、激しい痛みに耐えながらも必死に起き上がろうとする。その顔には、恐怖と不安がありありと浮かんでいた。健一郎はその様子を見て、全てを悟る——間違いない、こいつだ!


健一郎が動き出すより早く、慎吾は二人を完全に無視して絢のベッドへと歩み寄った。全身に傷を負い、変わり果てた彼女の姿を目にした瞬間、慎吾の胸の奥に静かに燃えていた怒りは、烈火のごとく燃え上がる。


「慎吾!どうして来たの?お願い、もう行ってって言ったのに!」絢はかすれた声で必死に叫ぶ。「お願い、私は大丈夫だから……早く逃げて!お願いだから!」  

彼女の切実な叫びには、杜の冷酷さを知る者の恐れがにじんでいた。慎吾まで巻き込まれてしまっては、取り返しがつかない。


傷だらけなのに、なお自分を心配する絢を見て、慎吾の胸には言葉にできない感情がこみあげる。彼はそっと彼女の冷たい手を包み込み、静かに膝をついて、これまでになく柔らかな声で告げた。  

「大丈夫、俺は逃げない。絢、君がこんな目に遭ったのは俺のせいだ。必ず、この借りは返す。何倍にもして——。」


「だめ!やめて!」絢は激しく首を振り、涙がとめどなく溢れる。「お願い慎吾、復讐なんてしないで!あなたじゃ敵わない、今ならまだ間に合うから逃げて……お願い、お願いだから!」  

その声は、絶望と悲しみに満ちていた。


そのとき、ようやく健一郎が我に返り、怒りを爆発させる。目の前の若者が誰か、ようやく思い出したのだ——冷泉千尋の元夫、前科者のはずだ。しかし、そんなことはどうでもよかった。目の前で娘とこの男が「いちゃついている」こと自体が、杜の怒りをさらに煽る行為だった。


「誰かと思えば……」健一郎は慎吾を指差し、嘲りを隠さない。「刑務所上がりの前科者じゃないか。冷泉社長にも見捨てられたくせに、今度はうちの娘に手を出すつもりか? そんな夢、見るなよ。せっかく自分から来てくれたんだ、今日は逃がさないぞ。」


満足げな笑みを浮かべ、携帯を取り出す。「今すぐ杜様に知らせてやる。犯人は見つかったとな。お前はもう終わりだ!」


「やめて!お父さん、お願い!杜様には連絡しないで、慎吾を傷つけないで!」絢はまるで尻尾を踏まれた猫のように、激痛も忘れてもがき叫ぶ。「私、結婚する!杜様と結婚するから、もう二度と慎吾には会わないから、どうか彼を許して……お願い!慎吾、逃げて!」


「逃げる?どこへ?」健一郎は冷笑を浮かべる。「墨村、お前のせいで娘はこんな目に遭った。杜様が許しても、俺は絶対に許さない!」


その卑劣な態度に、慎吾は吐き気すら覚えた。万川忠からの情報と、今目の前で見ている光景で、この「父親」がどれほど卑怯で弱い人間か、はっきりと理解した。


「絢——」慎吾の声は静かで、深い海のように澄んでいた。「俺を信じてくれるか?」


彼の目の奥に宿る決意に、絢は溺れる者が藁をも掴むように、強く頷いた。「信じてる!」


慎吾はわずかに微笑み、濡れた前髪をそっとなでる。「じゃあ、もう何も言わなくていい。全部、俺に任せて。絶対に、もう誰にも君を傷つけさせない。」


そう言って立ち上がると、その姿は眠れる龍が目覚めたかのようだった。鋭い視線が、怒りに震える健一郎に向けられる。


「白鳥家当主として、あなたが絢の父親であることには敬意を払う。しかし、これ以上彼女を追い詰めたり、侮辱するようなことをすれば——」慎吾の声が一変し、冷たい刃のように鋭くなる。「あなた自身が思い知ることになる。自分が何者なのかを。」


そのひと言ひと言が、健一郎の心の奥底を突き刺した。


「自分の財産を守るために、実の娘を地獄に突き落とす父親。」


「娘が死にかけても、加害者を責めず、不倫だと罵る父親。」


「そんな人間が、父親でいられるのか?」


慎吾が一歩前に出る。見えない威圧感に、健一郎は呼吸を飲み込んだまま動けなくなる。


「これからは、俺が絢を守る。」


「杜との婚約も、ここで終わりだ。」


「杜に関しては……もう、あいつの出番はない。」


「な、なにを——!」健一郎は完全に逆上し、我を忘れて慎吾に手を上げた。


だが、その手が振り下ろされる前に、まるで鉄の鉗子のような手がしっかりと腕を掴んだ。


万川忠が、いつの間にか慎吾の隣に立っていた。氷のような表情で、低いが強烈な威圧を込めて言う。


「白鳥家当主、なかなかのご威勢ですね。」


「ですが、墨村様に無礼を働けば……」万川はさらに力を込め、健一郎の手首から骨が軋む音が響く。「万川財閥を敵に回すことになりますよ。」


その言葉で、ようやく健一郎は気づく。慎吾が一人で来ていなかったことに。そして、万川忠の顔を認識した途端、顔色がみるみる青ざめる。横浜の裏社会を牛耳る実力者、万川財閥の重鎮——自分が逆らえる相手ではない。


「万川様……?これは、うちの家の問題です。どうして関わるんですか?まさか、墨村と何か……?」


万川は冷笑し、腕を振り払った。そのまま慎吾の一歩後ろに立ち、恭しいが堂々とした態度で言い放つ。


「墨村様は、我が万川財閥の恩人です。あなたごときが、この場で大声をあげる権利などない。」


「白鳥家と杜家が手を組んだところで、万川財閥の前では、何の力もありません。」


「墨村様に指一本でも触れたら——我々は全てを賭けてでも、あなた方をただでは済ませません。」


「わかりましたか?」


健一郎は雷に打たれたようにその場に立ち尽くす。どうして「前科者」が、万川財閥の恩人などになっているのか、全く理解できなかった。


だが、理解できるかどうかは関係なかった。


現実は非情だった。白鳥家も杜家も、万川財閥の前では蟻にすぎない。もし本当に全てを賭けてくると言うのなら……その結末は、想像すらできなかった。

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