その瞳が欲しいと思った。
恐怖にも絶望にも染まらず、ただ真っ直ぐ自分に向けられた瞳。
だから、契約を持ちかけた。
※
幼な子が地に落ちた花を拾い、親に笑いかけている。
ラグナだって本当は、一緒に笑いたかった。
けれど、教皇の座に就いた日に、それはもう、手放すしかなかった。
「教皇様」
信徒たちの手が次々に揺れた。
ラグナの誕生日を、祝福する言葉が重なる。
「教皇、か」
――ラグナじゃない。
あの子は、笑っていた。
誰も、ラグナを見ていない。
ただ、金髪に金色の瞳。ラグナの持つ象徴を通じて、ただ太陽神の姿を重ねて見ているのだ。
ただ、教皇という在り方だけを、ラグナは求められていた。瞳の色など、生まれつき授かるものなのに。
「それほど、求められていたのか」
神の代理人である限り、少年ではいられなかった。
誰か、一人でいい。
ラグナを呼ぶ声があったなら、どれほど楽だったか。
現実は残酷だった。求められるのは、個ではない。名前のない偶像だ。
ラグナは、意識して息を吐く。
肩口まで伸びた金の髪を一房、指先で摘んだ。
周囲の大人からは、髪を伸ばしてくれと言われていた。
民が安心する姿だと、そう信じ込まされて。
「……」
馬車の中でラグナは息を吐いた。
表情の筋肉が、役目を終えたかのようにほどけた。
(祭儀も終わった、はずだったのに)
肩にかかるのは、何百もの祈りの重みだった。
「ラグナ様、至急ご報告が――異端者です」
馬車の外から、抑えられた声が届く。
「言え」
そちらを見遣れば、十近く離れた青年の琥珀色の目が、馬上からラグナを見下ろしていた。
見下ろされているという感覚は、不思議と不快ではなかった。
信頼でも服従でもない。もっと別の関係だ。
「失礼します。こちらが取り急ぎ報告書です、お目通しください」
「……異端者、ねぇ」
窓越しに、馬上の青年が書類を手渡す。
受け取る際、ひやりとした外気に手が震えた。
書類には、短い文面ながら記録官らしい几帳面な文字で、灰金のインクが淡々と事実を並べていた。
異端者を発見。
狩りにて捕縛済。抵抗あり。
一般市民への被害はなし。
詳細不明。尋問予定。
ラグナは読み終えると、苛立ちを隠すことなく軽く指で紙を弾く。
「巡行中、異端者狩りは行わない。そのはずだろ?」
言外に命令はどうしたと滲ませる。
「急遽行われたと記録されてます」
「俺は聞いてない。誰の指示だ」
ラグナの声音が、冷たく低く落ちた。
記録官は答えず、ただ視線を下げたまま返さない。
ラグナは少しだけ、唇の裏側を噛んだ。
答えなど、最初からわかっていた。
――それでも、ぶつけずにいられなかった。
「現場判断だと、私は聞かされています」
青年は、あくまでも記録された事実を読み上げる。
ラグナは、視線を書類から外さなかった。
怒っていると見せず、だが一言も許してはいなかった。やがて、ラグナは嘆息すると短く命じる。
「巡行が終わった後、現場に視察に行く。お前が迎えに来い」
その声には、異議を唱えさせない威圧が込められていた。
街は、教皇ラグナの巡行に沸いていた。
長く空席だった、教皇の座を受け継いだ少年を乗せた馬車が走る。
道中は、どこまでも華やかだ。
この日のために、季節外れの黄と白の花びらが敷き詰められている。本来なら咲かぬはずの花だ。温室で育てられ、祈りの形として撒かれた。風がそれを巻き上げるたび、信徒の祈りが天へと流れていった。
ラグナは口元に笑みを浮かべていたが、その心はすでに馬車の外にあった。
(異端者狩りが行われた。何故、今?)
頭の中で何度も繰り返されるのは、そのことばかりだった。
本来ならば、ラグナの承認が必要だ。
知らぬうちに行われた行為に、心が重くなる。
「……先が思いやられる」
馬車が止まったのは、程なくしてからのことだった。
「この後は?」
「陛下のご負担を考慮し、本日はこれ以上の公式予定を組んでおりません」
降車するラグナを迎えた神官は、平伏しながら言葉を継いだ。
「そうか」
ラグナの返事は短く淡々としていた。
――やはり、指示が行き届いていない。
あの記録官ならば、抜かりなく手配はしているはずだが。
「どうか、ゆるやかなお時間をお過ごしください」
ラグナは一瞬振り返った。
彼に許されていたのは、神の名を背負う現実だけだ。室内の影の中に踏み込むと、鐘の残響が途切れる。
「では俺は休む。お前たちも下がっていい」
それだけを伝えると、扉は静かに閉ざされた。
扉の奥で、教皇という仮面は静かに外された。
夕刻。
ラグナは、寄せられた報告書に目を通していた。
まだ政務の大半は、代理の大人たちが取り仕切っていた。教皇の決裁が必要な案件も少なくない。
それらに目を通し、整った筆跡でラグナ・ルクス・エテルナと署名を記す。
最後にラグナは、右手の人差し指と中指を重ね、書類の右下に軽く触れる。接触した場所を中心に、淡い光が生まれ――そしてすぐに、消えた。
ラグナが指を離すと、そこに、淡く金色を帯びた印が浮かんでいた。
やがて銀灰色に落ち着く印は、教皇の名ではなく、ラグナ個人が示す信頼の証だった。
一通り目を通し終えた頃。
「陛下。視察の準備が出来ました」
ようやく、迎えの声が聞こえる。
「待ちくたびれた――けど、助かる」
誘う声がなければ、ラグナは外に出ることは出来ない。
扉の開閉すら、他者の手に委ねられるのが、彼の日常だった。
誰よりも権力を持つのに、それでいて、誰よりも不自由で無力なのだ。
書類を引き出しにしまい、上着を手に取る。ラグナは、扉へと向かった。
この現実は、少年の肩に問答無用でのしかかる。
そのすべてを背負ったうえで、この少年が選び取る契約が、教皇という仮面の意味すら、変えてしまうかもしれない。
ラグナは扉を開いた。
現実と制度への抗い方すら、まだ、知らぬまま。