その行動が目を引いた。
誰よりも力があるはずなのに、何故か――自分を犠牲にした。
だから、名を知りたくなった。
※
二度目の落雷を受けて、はじめてラグナはその存在に気付いた。
「おい、あれはどういうことだ」
ラグナの金の視線の先に、拠点の外を目指す二人の人影があった。
「異端者……捕まえたはずでは?」
傍らの記録官が、開いた手帳にペンを走らせ鋭く問えば、駐留していた兵士がしどろもどろ弁解をはじめる。
「早く追え」
そう命じた時だ。
ぞくりと、背筋を冷たいものが流れた。
異端者が組み上げた構成が、美しいと思った。
確固たる定義。
命をかけた誓約。
緻密に織られた祈りの構成に破綻はなく、教会の祝福ではまず見かけない。
それは、ほとんど祝福使いとしての直感だ。
術者の姿が見えなくたって、魂の深いところで理解してしまう。
あの向こうに異質な、何かがいる。
それが模倣した奇跡は、現実にささやかなものしかもたらさなかった。
それでも、行手を塞いだ大樹の向こうで人影が逃げおおせた瞬間を、ラグナは忘れられないだろう。
取り押さえられる人影を見ながら、命じた。
「尋問には、俺が立ち会う。部外者は退室させろ」
「……私か、せめて護衛をつけさせてください」
「いらない。俺を誰だと思っている?」
そう言ってやれば、琥珀色の目が困ったように天を仰いでいた。
※
「いい加減、口を開いたらどうだ?」
怒鳴り声と共に肩を踏まれ、アイルは悲鳴を押し殺し男を睨みつけた。
矢こそ抜かれ、簡易的な手当てはされていた。しかし、この短時間でどうこうなるものではない。
逃げ切れただろうか。わからない。
ただ、教会の連中が今もアイルに敵視を向けているならば、可能性は高い。そう信じるしかなかった。
さっき殴られた頭が、まだ揺れている気がする。
身を動かした瞬間、手首の枷が締まり痛みを呼ぶ。
けれどぐっと声を抑えた。
それでも、それでも意識だけは手放さないと、アイルは耐えていた。
「お前の名は?」
言うわけがない。
「他に仲間は? 全部お前が手引きしたのか」
話す必要がない。
「お前のような人でなしが、何をしたかわかってるのか?」
――ほら、いつもそうだ。
「お前は教会の教えに逆らった」
「……そんな教えが正しいというなら、俺は従わない」
相手が激昂するのがわかる。首輪に繋がれた鎖を強く引かれたが、例え、再び痛みを与えられたとしても。
それでも、それを理由に口を噤むことを、アイルの矜持が許さなかった。
「俺たちは生きている人間だ。教会が異端者を人ではないとするならば、俺たちはどうすればいい? 黙って、死ねと?」
しんと、静寂が落ちた。
アイルは黙したまま目を逸さなかった。
さあ早く答えてみろと、お前たちの正しさを証明してみせろと、目線で訴える。
キィキィと、蝶番が場違いな音を立てたのはその時だった。
「随分と、面白い光景じゃないか」
よく透る声と共に少年が開かれた扉をくぐり、臨時の尋問室に立ち入る。
蝋燭の灯りでも煌めく肩口までの金髪に、冷たい、金色の瞳。
「教皇……」
アイルは呟いて、舌打ちする。
少年は用意された椅子に腰を下ろすと、面白そうにアイルを見遣り、それから室内の尋問官へ視線を向けた。
「お前たちには荷が重過ぎる。あとは、俺が引き継いでやるよ」
少年の有無を言わさぬ声がそう告げると、金の瞳がじっとアイルを見下ろす。
だから、アイルはその目を見上げるように睨みつけた。
「異端者。教皇陛下を傷つけたならば、あなたの記録はここで終わる。それは記録者として、私が許しません」
従者らしき男が、最後にそう言い残し部屋を後にする。
音を立てて閉まった扉の向こうでは、確かに人の気配が離れていく。
「正気か?」
「異端者のお前に、言われたくない」
すぐさま返ってくる応えに、アイルは再び舌を打った。
「それで、お前の名は? ふーん、だんまりか。ラグナ・ルクス・エテルナ」
「“神の永遠の光”――よく出来た名前じゃないか」
頭が、よく回らない。
しかし、名を預ける気にはならなかった。
アイルは知る必要があった。この子供が、わざわざ異端者とされる自分の前に、現れたその意味を。
「やっぱり、異端者にも賢い者がいるようだ。なぁ、お前。その矢、避けれたんじゃないか?」
「さぁな。お前がそう思ったなら、そうかもしれないな――問う、お前の目的は何だ?」
アイルの問いに、少年がふふと笑いをこぼした。
※
よく口が回る。そう思った。
黒髪の青年は、ラグナよりいくらか年上、まだ二十代も半ばに見えた。
短く切り揃えられた前髪の合間に、
(魔力を使ったからか)
報告にあっただけで、この青年は幾度も奇跡を模倣していた。雷を二度呼び、拘束具を破壊し、兵を昏倒させ、道を塞いだ。
よくぞまあ、禁呪を使うとはいえ、瞳に色を保てているものだ。
それに、青年はラグナが来る前に相当痛めつけられたようだ。気力も体力も限界だろうに、それでも、灰で濁った藍色の瞳は恐怖にも、絶望にも染まっていなかった。
不可解なほどに、怯えていなかった。
ただ真っ直ぐ自分に向けられた瞳。
気のせいではない。教皇ではなく、ラグナ個人に向けている。
それが、その瞳がたまらなく欲しくなった。
「目的なら、ある。なぁ」
だから、望んでしまった。
「お前に最後の機会を与える。膝を折れ。教会に従え。俺のそばにいろ。代わりに、俺が叶えられる限り、願いを一つだけ叶えてやる」
拒絶か命乞いか。
そんな返事だと思ったのに、現実は違った。
青年が、わずかな逡巡のあと、じっとラグナを見上げたまま口を開く。
「異端者狩りの停止。これを飲むならば、従ってやってもいい」
迷いのない口振りに、ラグナはへぇと声を溢した。
「これは俺に一方的に有利な契約だ、わかっているか?」
「承知している」
「俺はお前の全てを支配するぞ」
「覚悟の上だ」
ラグナが翻意を促しても、青年は一度も撤回しなかった。
「今なら撤回してもいい、本当に契約を結ぶのか?」
「だから結ぶと言っているだろ。それとも何か、お前が怖気づいたか? 叶える自信がないなら諦めな」
揶揄うように青年が笑うものだから、ラグナもまたつられて笑ってしまう。
「ははは、いいだろう。正式な契約は聖都で行おう。ひとまず、仮契約は成立した」
その言葉を最後に、青年から力が抜ける。
「最後に問う。お前たちが捕えたのは俺だけか?」
目を伏せた青年の声は、先程より力がない。
「そうだ。俺たちの戦果はお前だけだ」
望む事実を、偽りなくラグナは伝えてやる。
それを聞いた瞬間、青年の緊張の糸が切れたのだろうか。
「……おい」
傾く体を咄嗟に抱き止めたが、青年はぐったりとして意識を手放していた。
「手放してたまるか――おい、誰か来い」
そっと床に横たえると、ラグナは扉を開けて大声で人を呼んだ。
その声には珍しく、教皇ではなくラグナ個人の感情が滲んでいた。