午後、小早川グループ本社の最上階にある秘書課の休憩室。
そこには、まだ甘すぎるにおいが漂っていた。
桜庭凛子は小早川城の胸に寄りかかり、荒い息がまだ収まっていない。
男のたくましい腕が彼女の腰を締めつけ、未だ消えぬ独占欲を帯びた細かいキスが、汗で湿った彼女の後ろ首に刻まれていた。
今回、小早川が出張する半月の間、いつもと違っても彼女という「個人秘書」を連れなかった。
凛子は思った。五年も経ったのだから、さすがに社長も彼女という替え玉に飽きたのだろう、と。
正直なところ、彼女の心の内には安心すらあった。
五年前、祖母が重病になり、借金取りが家に押しかけた絶体絶命の時、凛子は小早川城と出会った。
彼女は、小早川が深く愛したという初恋のような存在、早乙女詩織にそっくりだと言われていた。
しかし、当時小早川が事故で植物状態に陥ると、早乙女詩織はあっさりとヨーロッパの名門貴族に嫁いでしまった。
小早川は本気で彼女を愛していたらしく、捨てられた後も忘れられずにいたようだ。
凛子と出会った小早川は、彼女の借金を肩代わりし、祖母には最高の医療を施した。
その代償として、凛子は表向きは社長秘書、裏では身代わりの愛人となった。
この五年間、凛子は本来の自分を抑え込み、早乙女詩織のように従順でおとなしいふりをして、小早川を喜ばせようと努めてきたが、心底うんざりしており、早く替わりを見つけてくれればと願っていた。
ところが、出張から戻った小早川は、彼女の退社時間すら待てず、直接会社に押しかけ、休憩室で凛子を十分に手込んでしまったのだった。
「社長、取締役会がお待ちです」と凛子が小声で告げる。
小早川は冷淡に応えると、彼女を離して浴室へと入っていった。
凛子はほっと一息つき、身体の不快感をこらえながら、慣れた手つきで彼の予備のスーツを取りに行った。
小早川はうつむき、彼女をじっと見る。
女は相変わらず従順で物分かりが良く、彼の目に一瞬の満足の色が走った。
「机の小切手だ。四億円、お前のものだ」と彼の口調に変わりはなかった。
「代官山ヒルズのあの別荘も、お前のものだ」
凛子は一瞬固まり、呆然と彼を見つめた。
これは、別れ金なのか?
小早川は、驚きと戸惑いが入り混じった彼女の様子を見て、顎をつまみあげた。
「褒美だ」
彼の親指が、微かに腫れた彼女の唇を撫でる。
その動きには、仄かな誘惑が込められていた。
「余計なことは考えるな。ただお前がこのまま従順で、言うことをよく聞いていれば、これからもっと与えてやる」
凛子は彼を見つめ、心に疑念が渦巻いた。
これからも…? 彼は関係を続けるつもりなのか?
彼女はうつむき、相変わらず優しく媚びた様子を見せて、そっと頷いた。
「社長、かしこまりました」
凛子が承諾すると、小早川を包んでいた無言の苛立ちが、一瞬で消え去ったように感じられた。
「ああ」と彼の口調はいつもの冷淡さを取り戻していた。
「午後は用はない。帰って休んでおけ」
「はい」と凛子が応える。
小早川は何も言わずに去っていった。
彼の姿が見えなくなると、凛子は小切手を手に取り、眉をひそめた。
ここ半年、小早川は明らかに彼女に冷たくなっていた。
つい最近も、彼女よりさらに早乙女詩織に似た娘が、小早川のそばにいるのを目撃したばかりだった。
その時、ベッドの足元で携帯電話が震えた。
拾い上げて見ると、経済速報のプッシュ通知が入っていた。
『【速報】倍栄キャピタル社長・小早川城、百年財閥カンベル家令嬢と政略結婚へ! 世界の資本構図に激震!?』
凛子の瞳が一瞬で細くなった。
倍栄キャピタル社長――それは紛れもなく小早川城だ。
胃が激しく攣り、彼女は洗面所に駆け込み、むせび泣くように吐き気をこらえた。
鏡には、青ざめ、みすぼらしい自分の顔が映っている。
男の常套手段とはいえ、小早川もここまでやるとは。
結婚するというのに、まだ白い月の身代わりを手放さないつもりなのか?
こんな身代わりの愛人、やりたい奴がやればいい。
彼女はもう、付き合いきれない!
身繕いを済ませ、彼の会議が終わる頃合いを見計らって、凛子は退職願を手に社長室へ向かった。
ドアの前まで来ると、中から小早川の親友であり、東京の御曹司でもある高橋修の茶化した声が聞こえてくる。
「城、結婚するってのに、桜庭秘書はどうするつもりだ?」
一瞬の沈黙の後、小早川の冷たい声が返った。
「今まで通りだろ」
「愛人として、で、彼女も納得してるのか?」と高橋が詰め寄る。
「金をきちんと積めば、何が不満がある?」その口調に込められた嘲りと軽蔑が、鋭い氷の柱のように凛子の心を貫いた。
「マジかよ?」高橋の声は突然高くなり、興奮を帯びていた。
「じゃあ、俺がお前より高い金を出せば、あの娘、俺に売ってくれるってことか?」
その言葉が終わるか終わらないか、背後から小早川の社長補佐、田中の声がした。
「桜庭秘書?」
凛子が我に返ると、高橋に一礼し、ドアを叩いて中へと入っていった。
高橋は話の途中でぱったり言葉を失い、気まずそうに笑みを作った。
「やあ、桜庭秘書~」
凛子は彼がさっき言った言葉を思い出し、再び胃がむかついた。
高橋には一切目もくれず、不機嫌そうな表情の小早川の前に真っ直ぐに進んだ。
「帰って休めと言ったはずだが?」小早川の口調は険しい。
「社長」凛子は退職願を差し出し、静かでありながら揺るぎない口調で言った。
「私の退職願でございます」
小早川の顔色が一気に曇った。
「どういうつもりだ?」
「当初の約束です。私は不倫相手にはなりません。社長が結婚されるなら、私は辞めさせていただきます」凛子は退職願を机に置いた。
「業務は迅速に引継ぎいたします。未完了のプロジェクトも処理します」
「それでは、高橋社長とのお話、お邪魔いたしません」そう言い終えると、くるりと背を向けた。
呆然とした高橋の横を通り過ぎる際、凛子は足を止めた。
彼女は高橋を、まるでゴミを見るような冷たい眼差しで見据え、彼の先の問いにはっきりと答えた。
「売、り、ま、せ、ん」