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第2話

桜庭凛子の姿がドアの向こうに消えた。


高橋修はようやく我に返り、信じられないという顔で小早川城を見た。


「あのクールな女性……あれが、君のあの可憐な秘書の桜庭凛子さんか?」


小早川城の顔は、滴り落ちそうなほどに曇っていた。


その瞳には、本人すら気づかない一瞬の動揺が走った。


あの約束を覚えていないわけがない。


だが、自分が結婚したからといって、桜庭凛子が本当に去るとは、彼は全く信じていなかった。


五年もの間、彼女は何でも言うことを聞き、どんなに理不尽な要求も黙って受け入れてきた……


反抗するはずがない。


反抗するなんて、ありえない!


彼は猛然と立ち上がり、怒気をまとって追いかけた。


桜庭凛子の行動は素早かった。


退職願を提出すると、すぐに秘書課へ戻り、仕事の引き継ぎの準備を始めた。


ドアをくぐった直後、小早川城が冷たい空気を纏って入ってきた。


「小早川社長、何かご用でしょうか?」桜庭凛子は彼を見つめ、かつての従順さは微塵もなかった。


小早川城の表情はますます険しくなった。


「桜庭、俺がお前にしてやったことは不十分だったのか?一体何が不満だ?」


彼は一歩一歩近づき、圧倒的な威圧感を放つ。


「社長が結婚なさるなら、私は去る。それが最初に決めた条件です」


桜庭凛子は低い声で言った。


小早川城は冷笑し、目には嘲笑が満ちていた。


「つまり、四億円と代官山ヒルズでは足りないってことか?」


桜庭凛子の身体が硬直した。


耳に彼の「金さえ積めば、文句は言うまい」という言葉が蘇り、胃がひっくり返りそうだった。


彼女は必死にもがいた。「小早川城、離して!」


「桜庭、俺の忍耐にも限界がある。手管を弄するな!」


小早川城は指に力を込め、彼女の手首の骨を砕かんばかりの勢いだった。


声は冷たかった。


「言え。お前が大人しくするには、いくらかかるんだ?」


彼は、彼女の退職は単なる金のせいだと決めつけていた。


あの時も、最初は死んでも売らないと言っていたじゃないか?


だが金が積まれれば、結局は大人しく彼のベッドに上がっただろう?


つまり、単なる値段の折り合いがついていないだけだ。


彼女が本当に去るはずがない。


桜庭凛子は眉をひそめて彼を見つめた。


この五年間、常に冷静でいられたのは、自分がただの代わりに過ぎず、彼の「優しさ」の全てが早乙女詩織への幻影だと知っていたからだ。


そうでなければ、今頃は彼にズタズタに傷つけられていただろう。


「小早川城、私はもう売らない!」彼女は彼をまっすぐに見据え、一語一語を噛みしめるように言った。


「母は不倫相手に追い詰められた。私は死んでも不倫相手にはならない!」


秘書課は死の沈黙に包まれた。


小早川城は理解できずとも、ついに彼女が本気だと悟った。


「随分、お前の祖母に会っていないな」彼は怒りを抑え、少しだけ声を和らげた。


「一ヶ月の休暇をやる。よく考えてから出直してこい」


祖母……?桜庭凛子の目はむしろ一層決然としたものになった。


「考える必要はありません。決めました」


「桜庭凛子!」小早川城の怒りは爆発した。


珍しく身を屈して用意した逃げ道を、彼女がこれほどに無下にするとは!


「お前は所詮、詩織の代役に過ぎん!使い慣れただけだ!自分が代替不能だと思い上がるな。俺がお前なしではいられないとでも?」


「小早川社長、私にそのつもりはありません。とんでもない」桜庭凛子の返答は鉄のように冷たく硬かった。


「よし!」小早川城は彼女の手を振りほどき、いつもの冷徹な様子に戻った。


「桜庭凛子、お前は詩織に一番似ているわけではないが、誰よりも従順だった。それがお前の唯一の取り柄だった」


彼は彼女を睨みつけ、目は氷のように冷たかった。


「今では、その取り柄すら失った。どうしても出て行きたいなら、どうぞご勝手に」


「小早川社長、ありがとうございます」桜庭凛子の口調は平静だった。


「仕事はきちんと引き継ぎ、ご迷惑はおかけしません」


「秘書の仕事は誰にも引き継ぐ必要はない。


新しい秘書が来るまで、お前が彼女をしっかり指導しろ」


小早川城はそう言い残すと、振り返りもせずに去った。


あの束の間の引き留めは、彼女という「早乙女詩織」があまりにも巧く、あまりにも従順に演じきっていたからに過ぎなかった。


今や彼女が言うことを聞かなくなったのだ。


彼もまた忍耐を失い、執着することは当然ない。


桜庭凛子は赤く腫れた手首を揉んだ。


ようやく、解放された。


自分のアパートに戻ると、仕事のメモと引き継ぎ事項の整理を始めた。


秘書業務の引き継ぎは難しくない。


彼女の丁寧にまとめられた二冊の業務メモがあれば、新しい秘書でも十分に学べるだろう。


そう考えていると、携帯電話が鳴った。メディカルガーデンクリニックだ。


少し前に帰国した友人、小林美桜に痩せすぎだと言われ、無理やり健康診断に連れて行かれたのだ。

おそらく結果が出たのだろう。


「桜庭様、こちらメディカルガーデンクリニックです」


「承知しております。報告書はメールで送ってください」桜庭凛子は電話を切ろうとした。


相手が先に言った。「桜庭様、おめでとうございます!ご懐妊です、妊娠8週目です!」


「えっ?」「ご懐妊です!8週目です!」電話の向こうの声は喜びに満ちていた。


彼女が妊娠?そんなはずが?小早川城とは厳密に避妊していたのに!


「桜庭様、当クリニックには一流の私立産科とマタニティサービスがございまして…」相手は熱心に売り込んでくる。


桜庭凛子の頭は真っ白だった。


その後は一言も耳に入らなかった。


徐々に理性が戻ると、彼女は迅速に利害を考え、平坦なお腹を見つめた。


この子は、産んではいけない。


桜庭凛子は一睡もできず、二日間の休暇を取った。


朝早く、彼女は一人で病院へ行き、再検査を受けた。


結果は同じだった。妊娠8週目。


必死に思い返すと、唯一の可能性は、二ヶ月前の小早川城の誕生日の夜に起きた、束の間の自制心の喪失だった。


「お嬢様、もともとお身体が妊娠しにくい体質です。このお子様は…慎重にご検討なさった方がよろしいかと」


医師は、憔悴した彼女が一人であることを見て、遠回しに忠告した。


桜庭凛子の心は苦しみでいっぱいだった。「わかりました」


病院を出ると、彼女は秋風の中に長い間佇み、やがて仙台行きの航空券を一枚買った。


飛行機が着陸すると、バラと月季花(ロサ・キネンシス)、そして二本の獺祭を買い、タクシーで多磨霊園へ直行した。


到着するなり小雨が降り始めた。


管理人佐藤さんが彼女を見つけると、傘を差して小走りに近づいてきた。


「凛子さん?今日はまだ日じゃないのに、どうして…」


「久しぶりに来ました」桜庭凛子は礼儀正しく応えた。


少し雑談を交わした後、彼女は獺祭を一本佐藤さんに渡し、傘を差して霊園の奥へと歩いていった。

佐藤さんは酒瓶を手に、彼女の細い背中を見つめながら、哀れむようにため息をついた。隣にいた掃除のおばさんが近づいてきた。


「ご親戚か?」佐藤さんは首を振った。


「可哀想な子だ。四、五歳の時に母親を送り、十歳前後で祖父を送り、半年前には…祖母も送った。葬儀の日は、一日中跪いて、何も口にしなかった」


桜庭凛子は慣れた手つきで墓石を見つけた。


祖父と祖母は合葬で、母親の墓が隣にある。


月季花は祖父と祖母へ──祖父は生前、毎日祖母に一本の花を買っていた。バラは母親へ。


最後に、祖父に杯を一杯注いだ。


「おばあちゃん、おじいちゃん、お母さん、私が戻ってきたのは…皆さんに伝えることがあるからです」


彼女は少し間を置き、かすれた声で言った。


「私、妊娠しました。道理で言えば、残すべきではない。でも、皆さんはもういない…この世に、私の血を分けた肉親は誰もいません。この子は、唯一の肉親です」


深く息を吸い込み、彼女は天にも昇るほどの決心をしたかのように言った。


「医者に言われました、私の体質ではなかなか妊娠できないと。だから…産むことに決めました!」彼女は冷たい墓石に向かって微笑んだ。


「皆さんが天にいらっしゃるなら、どうかこの子が無事に、健やかに育ちますように」


**東京、小早川グループ社長室**


桜庭秘書の退職の報は昨日、既に大きな騒ぎとなっていた。


知る人ぞ知る、気難しい小早川社長をなだめられるのは、桜庭秘書だけだったのだ。


社員たちがまだ半信半疑だったところに、今朝になって新秘書の早乙女亜月さんが空輸され、田中社長補佐は彼女を直接、桜庭秘書のオフィスに案内した。


さらに驚くべきは、この早乙女さんの顔立ちが、桜庭秘書と五、六分も似ていることだった!


もともと謎めいていた社長と秘書の関係の噂は、一瞬でますますドロドロで奇妙なものへと変貌した。


小早川城は朝から海外プロジェクトチームと会議をし、正午になってようやく社長室に戻ってきた。

ドアを入るなり、早乙女亜月がすがりつくように寄ってきた。


「城さま、私、桜庭秘書の席を取っちゃったから、彼女、気を悪くして教えに来てくれないんじゃ…?」


小早川城は眉をひそめて田中を見た。


「桜庭凛子は?」田中社長補佐は内心で「これはマズイ、新入りのこの方はポジション争いがお上手なタイプか?」と警戒した。


「社長、桜庭秘書はご家庭のご事情で、休暇を取って帰郷しております」


田中社長補佐は急いで説明した。


「私の手落ちです。朝から会議の準備で忙しくて、ご報告するのを忘れてしまいました」


「ご家庭のご事情?そんなに急いで、城さまに一言も言う暇もなかったなんて、とても深刻なことなんですか?」早乙女亜月は純真無垢な心配顔を見せた。


小早川城は無意識に距離を置いた


。「彼女がいないなら、先に戻れ。戻ってきたらまた来い」


「社長、午後三時、烽陽建設の周藤社長様とのゴルフのご予定が…」田中社長補佐が定例のスケジュール報告を続けた。


横目で見ると、小早川城の顔が土気色になっていた。


彼は淹れたてのコーヒーを一口含むと、眉をさらにひそめた。


「桜庭凛子に電話しろ!今すぐ引き継ぎに戻ってこい!」小早川城は苛立ってコーヒーを押しやり、書類を掴み取ると、顔を真っ黒にしていた。


「はい!」田中社長補佐は即座に携帯を取り出した。


小早川城は一瞥し、心の煩わしさがさらに募った。


彼女が帰ったのは、あの祖母の体調が悪いせいに決まっている。


ただ、よく考えれば、確かに彼女は半年以上も帰っていなかった。


「もういい!」彼は不機嫌に遮り、書類に目を落とした。


田中社長補佐は息をつくのも憚りながら、そっと隅へ下がると、素早く桜庭凛子にLINEを送った。


「#大泣き#桜庭秘書、社長のご機嫌が最悪で午前中ずっとでした!お忙しいとは思いますが、どうか至急戻ってきて助けてください!」


桜庭凛子は多磨霊園を後にし、行くあてがなかった。


田中社長補佐からのメッセージを受け取ると、彼女は少し考えた。


引き継ぎは早ければ早いほど身軽になる。子供のことは、小早川城に絶対に知られてはならない。


彼が、自分みたいな人間に小早川家の血を産ませるわけがない。


倍栄キャピタルから一刻も早く離れ、彼から遠くへ行くことが安全だ!彼女は躊躇せず、すぐに東京へ飛び帰った。


翌朝、桜庭凛子は時間通りに会社に現れた。社長室の一同は救世主を見たかのようだった。


「桜庭秘書!どうして辞めるんですか!あなたがいなくなったら、私たちどうやって生きていけばいいんですか!」


「そうだよ!社長の昨日のオーラ、怖くて息もできなかったよ!」


「ううう…桜庭秘書行かないで!社長をなだめてくれる人がいなくなったら、私たち生きていけない!」


そんな嘆きが続く中、社長専用エレベーターのランプが点灯した。


一同は即座に黙り込み、エレベーターの前に整列した。


ドアが開くと、全身黒のオーダーメイドスーツをまとった小早川城が、早乙女亜月を伴って現れた。


「社長、おはようございます」一同が声を揃えた。


列の最後尾に立つ桜庭凛子も含めて。


彼女は相変わらず、慣れ親しんだ黒と白のスーツドレスを着て、肩まで伸ばしたロングヘアだったが、その表情からは優しさは消え去り、ただ淡々とした様子だけが残っていた。


小早川城は早乙女亜月を連れて彼女の前に立った。


「こちらが新しい秘書の早乙女亜月だ」


彼の声には微塵の感情もなかった。


「しっかり教えろ」

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