桜庭凛子の姿がドアの向こうに消えた。
高橋修はようやく我に返り、信じられないという顔で小早川城を見た。
「あのクールな女性……あれが、君のあの可憐な秘書の桜庭凛子さんか?」
小早川城の顔は、滴り落ちそうなほどに曇っていた。
その瞳には、本人すら気づかない一瞬の動揺が走った。
あの約束を覚えていないわけがない。
だが、自分が結婚したからといって、桜庭凛子が本当に去るとは、彼は全く信じていなかった。
五年もの間、彼女は何でも言うことを聞き、どんなに理不尽な要求も黙って受け入れてきた……
反抗するはずがない。
反抗するなんて、ありえない!
彼は猛然と立ち上がり、怒気をまとって追いかけた。
桜庭凛子の行動は素早かった。
退職願を提出すると、すぐに秘書課へ戻り、仕事の引き継ぎの準備を始めた。
ドアをくぐった直後、小早川城が冷たい空気を纏って入ってきた。
「小早川社長、何かご用でしょうか?」桜庭凛子は彼を見つめ、かつての従順さは微塵もなかった。
小早川城の表情はますます険しくなった。
「桜庭、俺がお前にしてやったことは不十分だったのか?一体何が不満だ?」
彼は一歩一歩近づき、圧倒的な威圧感を放つ。
「社長が結婚なさるなら、私は去る。それが最初に決めた条件です」
桜庭凛子は低い声で言った。
小早川城は冷笑し、目には嘲笑が満ちていた。
「つまり、四億円と代官山ヒルズでは足りないってことか?」
桜庭凛子の身体が硬直した。
耳に彼の「金さえ積めば、文句は言うまい」という言葉が蘇り、胃がひっくり返りそうだった。
彼女は必死にもがいた。「小早川城、離して!」
「桜庭、俺の忍耐にも限界がある。手管を弄するな!」
小早川城は指に力を込め、彼女の手首の骨を砕かんばかりの勢いだった。
声は冷たかった。
「言え。お前が大人しくするには、いくらかかるんだ?」
彼は、彼女の退職は単なる金のせいだと決めつけていた。
あの時も、最初は死んでも売らないと言っていたじゃないか?
だが金が積まれれば、結局は大人しく彼のベッドに上がっただろう?
つまり、単なる値段の折り合いがついていないだけだ。
彼女が本当に去るはずがない。
桜庭凛子は眉をひそめて彼を見つめた。
この五年間、常に冷静でいられたのは、自分がただの代わりに過ぎず、彼の「優しさ」の全てが早乙女詩織への幻影だと知っていたからだ。
そうでなければ、今頃は彼にズタズタに傷つけられていただろう。
「小早川城、私はもう売らない!」彼女は彼をまっすぐに見据え、一語一語を噛みしめるように言った。
「母は不倫相手に追い詰められた。私は死んでも不倫相手にはならない!」
秘書課は死の沈黙に包まれた。
小早川城は理解できずとも、ついに彼女が本気だと悟った。
「随分、お前の祖母に会っていないな」彼は怒りを抑え、少しだけ声を和らげた。
「一ヶ月の休暇をやる。よく考えてから出直してこい」
祖母……?桜庭凛子の目はむしろ一層決然としたものになった。
「考える必要はありません。決めました」
「桜庭凛子!」小早川城の怒りは爆発した。
珍しく身を屈して用意した逃げ道を、彼女がこれほどに無下にするとは!
「お前は所詮、詩織の代役に過ぎん!使い慣れただけだ!自分が代替不能だと思い上がるな。俺がお前なしではいられないとでも?」
「小早川社長、私にそのつもりはありません。とんでもない」桜庭凛子の返答は鉄のように冷たく硬かった。
「よし!」小早川城は彼女の手を振りほどき、いつもの冷徹な様子に戻った。
「桜庭凛子、お前は詩織に一番似ているわけではないが、誰よりも従順だった。それがお前の唯一の取り柄だった」
彼は彼女を睨みつけ、目は氷のように冷たかった。
「今では、その取り柄すら失った。どうしても出て行きたいなら、どうぞご勝手に」
「小早川社長、ありがとうございます」桜庭凛子の口調は平静だった。
「仕事はきちんと引き継ぎ、ご迷惑はおかけしません」
「秘書の仕事は誰にも引き継ぐ必要はない。
新しい秘書が来るまで、お前が彼女をしっかり指導しろ」
小早川城はそう言い残すと、振り返りもせずに去った。
あの束の間の引き留めは、彼女という「早乙女詩織」があまりにも巧く、あまりにも従順に演じきっていたからに過ぎなかった。
今や彼女が言うことを聞かなくなったのだ。
彼もまた忍耐を失い、執着することは当然ない。
桜庭凛子は赤く腫れた手首を揉んだ。
ようやく、解放された。
自分のアパートに戻ると、仕事のメモと引き継ぎ事項の整理を始めた。
秘書業務の引き継ぎは難しくない。
彼女の丁寧にまとめられた二冊の業務メモがあれば、新しい秘書でも十分に学べるだろう。
そう考えていると、携帯電話が鳴った。メディカルガーデンクリニックだ。
少し前に帰国した友人、小林美桜に痩せすぎだと言われ、無理やり健康診断に連れて行かれたのだ。
おそらく結果が出たのだろう。
「桜庭様、こちらメディカルガーデンクリニックです」
「承知しております。報告書はメールで送ってください」桜庭凛子は電話を切ろうとした。
相手が先に言った。「桜庭様、おめでとうございます!ご懐妊です、妊娠8週目です!」
「えっ?」「ご懐妊です!8週目です!」電話の向こうの声は喜びに満ちていた。
彼女が妊娠?そんなはずが?小早川城とは厳密に避妊していたのに!
「桜庭様、当クリニックには一流の私立産科とマタニティサービスがございまして…」相手は熱心に売り込んでくる。
桜庭凛子の頭は真っ白だった。
その後は一言も耳に入らなかった。
徐々に理性が戻ると、彼女は迅速に利害を考え、平坦なお腹を見つめた。
この子は、産んではいけない。
桜庭凛子は一睡もできず、二日間の休暇を取った。
朝早く、彼女は一人で病院へ行き、再検査を受けた。
結果は同じだった。妊娠8週目。
必死に思い返すと、唯一の可能性は、二ヶ月前の小早川城の誕生日の夜に起きた、束の間の自制心の喪失だった。
「お嬢様、もともとお身体が妊娠しにくい体質です。このお子様は…慎重にご検討なさった方がよろしいかと」
医師は、憔悴した彼女が一人であることを見て、遠回しに忠告した。
桜庭凛子の心は苦しみでいっぱいだった。「わかりました」
病院を出ると、彼女は秋風の中に長い間佇み、やがて仙台行きの航空券を一枚買った。
飛行機が着陸すると、バラと月季花(ロサ・キネンシス)、そして二本の獺祭を買い、タクシーで多磨霊園へ直行した。
到着するなり小雨が降り始めた。
管理人佐藤さんが彼女を見つけると、傘を差して小走りに近づいてきた。
「凛子さん?今日はまだ日じゃないのに、どうして…」
「久しぶりに来ました」桜庭凛子は礼儀正しく応えた。
少し雑談を交わした後、彼女は獺祭を一本佐藤さんに渡し、傘を差して霊園の奥へと歩いていった。
佐藤さんは酒瓶を手に、彼女の細い背中を見つめながら、哀れむようにため息をついた。隣にいた掃除のおばさんが近づいてきた。
「ご親戚か?」佐藤さんは首を振った。
「可哀想な子だ。四、五歳の時に母親を送り、十歳前後で祖父を送り、半年前には…祖母も送った。葬儀の日は、一日中跪いて、何も口にしなかった」
桜庭凛子は慣れた手つきで墓石を見つけた。
祖父と祖母は合葬で、母親の墓が隣にある。
月季花は祖父と祖母へ──祖父は生前、毎日祖母に一本の花を買っていた。バラは母親へ。
最後に、祖父に杯を一杯注いだ。
「おばあちゃん、おじいちゃん、お母さん、私が戻ってきたのは…皆さんに伝えることがあるからです」
彼女は少し間を置き、かすれた声で言った。
「私、妊娠しました。道理で言えば、残すべきではない。でも、皆さんはもういない…この世に、私の血を分けた肉親は誰もいません。この子は、唯一の肉親です」
深く息を吸い込み、彼女は天にも昇るほどの決心をしたかのように言った。
「医者に言われました、私の体質ではなかなか妊娠できないと。だから…産むことに決めました!」彼女は冷たい墓石に向かって微笑んだ。
「皆さんが天にいらっしゃるなら、どうかこの子が無事に、健やかに育ちますように」
**東京、小早川グループ社長室**
桜庭秘書の退職の報は昨日、既に大きな騒ぎとなっていた。
知る人ぞ知る、気難しい小早川社長をなだめられるのは、桜庭秘書だけだったのだ。
社員たちがまだ半信半疑だったところに、今朝になって新秘書の早乙女亜月さんが空輸され、田中社長補佐は彼女を直接、桜庭秘書のオフィスに案内した。
さらに驚くべきは、この早乙女さんの顔立ちが、桜庭秘書と五、六分も似ていることだった!
もともと謎めいていた社長と秘書の関係の噂は、一瞬でますますドロドロで奇妙なものへと変貌した。
小早川城は朝から海外プロジェクトチームと会議をし、正午になってようやく社長室に戻ってきた。
ドアを入るなり、早乙女亜月がすがりつくように寄ってきた。
「城さま、私、桜庭秘書の席を取っちゃったから、彼女、気を悪くして教えに来てくれないんじゃ…?」
小早川城は眉をひそめて田中を見た。
「桜庭凛子は?」田中社長補佐は内心で「これはマズイ、新入りのこの方はポジション争いがお上手なタイプか?」と警戒した。
「社長、桜庭秘書はご家庭のご事情で、休暇を取って帰郷しております」
田中社長補佐は急いで説明した。
「私の手落ちです。朝から会議の準備で忙しくて、ご報告するのを忘れてしまいました」
「ご家庭のご事情?そんなに急いで、城さまに一言も言う暇もなかったなんて、とても深刻なことなんですか?」早乙女亜月は純真無垢な心配顔を見せた。
小早川城は無意識に距離を置いた
。「彼女がいないなら、先に戻れ。戻ってきたらまた来い」
「社長、午後三時、烽陽建設の周藤社長様とのゴルフのご予定が…」田中社長補佐が定例のスケジュール報告を続けた。
横目で見ると、小早川城の顔が土気色になっていた。
彼は淹れたてのコーヒーを一口含むと、眉をさらにひそめた。
「桜庭凛子に電話しろ!今すぐ引き継ぎに戻ってこい!」小早川城は苛立ってコーヒーを押しやり、書類を掴み取ると、顔を真っ黒にしていた。
「はい!」田中社長補佐は即座に携帯を取り出した。
小早川城は一瞥し、心の煩わしさがさらに募った。
彼女が帰ったのは、あの祖母の体調が悪いせいに決まっている。
ただ、よく考えれば、確かに彼女は半年以上も帰っていなかった。
「もういい!」彼は不機嫌に遮り、書類に目を落とした。
田中社長補佐は息をつくのも憚りながら、そっと隅へ下がると、素早く桜庭凛子にLINEを送った。
「#大泣き#桜庭秘書、社長のご機嫌が最悪で午前中ずっとでした!お忙しいとは思いますが、どうか至急戻ってきて助けてください!」
桜庭凛子は多磨霊園を後にし、行くあてがなかった。
田中社長補佐からのメッセージを受け取ると、彼女は少し考えた。
引き継ぎは早ければ早いほど身軽になる。子供のことは、小早川城に絶対に知られてはならない。
彼が、自分みたいな人間に小早川家の血を産ませるわけがない。
倍栄キャピタルから一刻も早く離れ、彼から遠くへ行くことが安全だ!彼女は躊躇せず、すぐに東京へ飛び帰った。
翌朝、桜庭凛子は時間通りに会社に現れた。社長室の一同は救世主を見たかのようだった。
「桜庭秘書!どうして辞めるんですか!あなたがいなくなったら、私たちどうやって生きていけばいいんですか!」
「そうだよ!社長の昨日のオーラ、怖くて息もできなかったよ!」
「ううう…桜庭秘書行かないで!社長をなだめてくれる人がいなくなったら、私たち生きていけない!」
そんな嘆きが続く中、社長専用エレベーターのランプが点灯した。
一同は即座に黙り込み、エレベーターの前に整列した。
ドアが開くと、全身黒のオーダーメイドスーツをまとった小早川城が、早乙女亜月を伴って現れた。
「社長、おはようございます」一同が声を揃えた。
列の最後尾に立つ桜庭凛子も含めて。
彼女は相変わらず、慣れ親しんだ黒と白のスーツドレスを着て、肩まで伸ばしたロングヘアだったが、その表情からは優しさは消え去り、ただ淡々とした様子だけが残っていた。
小早川城は早乙女亜月を連れて彼女の前に立った。
「こちらが新しい秘書の早乙女亜月だ」
彼の声には微塵の感情もなかった。
「しっかり教えろ」