芽衣は静かに酒を傾けていた。
凛子は何の問い詰めもなく、ただ礼金を振り込んだ。
関係者への謝礼に使えとのことだ。
手元の処理を終えると、凛子はゆっくりと荷造りを始めた。
昨日着た服を畳んでいる時、ポケットからダイヤのカフスボタンがこぼれ落ちた。
凛子は一瞬呆然とし、かがみ込んで拾い上げた。
このカフスボタンは昨年、小早川様のスイス出張に同行した際、あるデザイナーショップで一目惚れしたものだ。
当時は迷わず二月分の給料を叩いて購入した。
今思えば滑稽な話だ。
凛子は常に自らの立場を意識している。
贈り物すら越権行為になるのを恐れていた。
帰国後、小早川が宿泊した朝、凛子はさりげなく城の袖にこれを留めたのだ。
「ならば、お前も連れて行こう」
握りしめたカフスボタンの鋭い角が掌を疼かせる。
荷造りを終え、凛子はチェックアウトするとホテルレストランで軽食を注文した。
食事を始めてすぐ、携帯が震えた。
社長室グループチャットが次々に通知を上げる――
[今日も社畜]:小早川様、明日婚約発表らしいよ!
[福っつるふわ子]:小早川様、数日会社来てないわ。花嫁のウェディングドレス合わせ中とか~
[ガンバル満]:婚約指輪見た?海外ブロガーがスクープ!小早川様が奥様に贈るでかすぎるダイヤ!
煌びやかな指輪の画像が数枚続く。
[今日も社畜]:マジででけえ!
[福っつるふわ子]:ダサっ!
画面の輝くダイヤを見つめ、掌の貧相なカフスボタンへ視線を落とし、凛子は静かに画面を閉じた。
携帯をしまおうとした時、小早川からの通知が届く。
「俺の番号をブロックリストから出せ」
凛子はメッセージを一呼吸見つめ、返信した。
「小早川様、横浜インフラ事業の引継ぎは完了いたしました」
返信を待たず、さらに追記する。
「秘書業務ノートは早乙女秘書へ引継ぎ済み。当方は会社へ戻りません。執行社長職につきましては、慎重に考慮した結果、能力不足のため辞退いたします」
即座にかかってきたLINE通話を切り、番号をブロック。
電源を切り鞄に収めた。
落ち着いて食事を終えると、別の携帯が鳴った。
「桜庭様ですか?ご予約の運転手です。空港までお送りします」
「まだ早いのでは?」
約束より二十分早い。
「空港行きのお客様を送ったばかりで、ご都合よろしければすぐ発てます」誠実そうな声だ。
「すぐ来ます」一考してから、凛子は答えた。
乗車前に何度もナンバープレートを確認。
運転手が愛想よく荷物をトランクへ入れている間、凛子は後部座席に座った。
高速道路に入った時、親友の美桜から着信があった。
空港までの迎え時間を確認すると同時に、転職先の不満をぶちまけてきた。
凛子が笑って宥めていると、窓の外で流れていく標識が視界をちらっと見たら、彼女の瞳孔が瞬時に縮む。
記憶が確かなら、この方向は空港と完全に逆だ!
「美桜、後でかけ直す」急いで切った電話を置き、素早く地図を開いて確認する。
案の定、車は反対方向へ向かっていた。
「運転手さん、次のSAで停車お願いします。ちょっとトイレに行きたいですから」凛子は落ち着いたふりで言った。
「この近くにSAはねえ。ガマンしろ」運転手の目つきが一瞬で陰険に変わる。
「ではお急ぎを」そう言いながら警察に通報のメールを打つ。
突然、車が急ブレーキ!
彼女は本能的にお腹を守り、前席へ激しく叩きつけられる。
眩暈が襲った。
ドアが乱暴に開けられ、携帯が力づくで奪われた。
「警察に通報する気か?」運転手は冷笑しながら地面へ携帯を叩きつけた。
「いくら欲しい?」と凛子は恐怖を抑え、静かに言い放った。
「桜庭秘書」運転手が不気味に近づく。
「他人の獲物に手を出す分際で、済むと思ってたか?」
「竜也組長の差し金か?」
「頭いいな!」突然凛子の髪を掴んだ。
「黒崎組長がちょっとした金を持ち出しただけなのに、お前ら吸血鬼どもはぼろ儲けしてるんだから、分け前ぐらいよこせよ?なのによ、お前は真っ向から生きる道を絶つってか?」
頭皮を抉るような痛みに、凛子は歯を食いしばって、「組長の倍出す」と言った。
「ふん!」運転手が唾を吐いた。
「黒崎組長は俺の恩人だ。金で動くお前らとは違う」
凛子は最初からだめ。
今はあの通報メールだけが頼りだ。
もし届いていなければ、哀れにも小早川の顔が脳裏をよぎる。
白が新婚の祝い酒を酌み交わす頃、自分はこの荒野で音もなく消えるのだ。
「組長が私に会いたがってるんでしょ?」凛子は突然運転手を押しのけ、車内に戻る。
「余計な話はよせ。早く発て」
運転手は呆けたが、すぐに嗤った。
「兄弟たちが桜庭秘書を見物したがってるぜ。その時はな、大声をあげるんだぜ――」
ドアが乱暴に閉じられ、エンジンが唸りを上げた。