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第34話

芽衣は静かに酒を傾けていた。


凛子は何の問い詰めもなく、ただ礼金を振り込んだ。


関係者への謝礼に使えとのことだ。


手元の処理を終えると、凛子はゆっくりと荷造りを始めた。


昨日着た服を畳んでいる時、ポケットからダイヤのカフスボタンがこぼれ落ちた。


凛子は一瞬呆然とし、かがみ込んで拾い上げた。


このカフスボタンは昨年、小早川様のスイス出張に同行した際、あるデザイナーショップで一目惚れしたものだ。


当時は迷わず二月分の給料を叩いて購入した。


今思えば滑稽な話だ。


凛子は常に自らの立場を意識している。


贈り物すら越権行為になるのを恐れていた。


帰国後、小早川が宿泊した朝、凛子はさりげなく城の袖にこれを留めたのだ。


「ならば、お前も連れて行こう」


握りしめたカフスボタンの鋭い角が掌を疼かせる。


荷造りを終え、凛子はチェックアウトするとホテルレストランで軽食を注文した。


食事を始めてすぐ、携帯が震えた。


社長室グループチャットが次々に通知を上げる――


[今日も社畜]:小早川様、明日婚約発表らしいよ!


[福っつるふわ子]:小早川様、数日会社来てないわ。花嫁のウェディングドレス合わせ中とか~


[ガンバル満]:婚約指輪見た?海外ブロガーがスクープ!小早川様が奥様に贈るでかすぎるダイヤ!


煌びやかな指輪の画像が数枚続く。


[今日も社畜]:マジででけえ!


[福っつるふわ子]:ダサっ!


画面の輝くダイヤを見つめ、掌の貧相なカフスボタンへ視線を落とし、凛子は静かに画面を閉じた。


携帯をしまおうとした時、小早川からの通知が届く。


「俺の番号をブロックリストから出せ」


凛子はメッセージを一呼吸見つめ、返信した。


「小早川様、横浜インフラ事業の引継ぎは完了いたしました」

返信を待たず、さらに追記する。


「秘書業務ノートは早乙女秘書へ引継ぎ済み。当方は会社へ戻りません。執行社長職につきましては、慎重に考慮した結果、能力不足のため辞退いたします」


即座にかかってきたLINE通話を切り、番号をブロック。


電源を切り鞄に収めた。


落ち着いて食事を終えると、別の携帯が鳴った。


「桜庭様ですか?ご予約の運転手です。空港までお送りします」


「まだ早いのでは?」


約束より二十分早い。


「空港行きのお客様を送ったばかりで、ご都合よろしければすぐ発てます」誠実そうな声だ。


「すぐ来ます」一考してから、凛子は答えた。

乗車前に何度もナンバープレートを確認。


運転手が愛想よく荷物をトランクへ入れている間、凛子は後部座席に座った。


高速道路に入った時、親友の美桜から着信があった。


空港までの迎え時間を確認すると同時に、転職先の不満をぶちまけてきた。


凛子が笑って宥めていると、窓の外で流れていく標識が視界をちらっと見たら、彼女の瞳孔が瞬時に縮む。


記憶が確かなら、この方向は空港と完全に逆だ!


「美桜、後でかけ直す」急いで切った電話を置き、素早く地図を開いて確認する。


案の定、車は反対方向へ向かっていた。


「運転手さん、次のSAで停車お願いします。ちょっとトイレに行きたいですから」凛子は落ち着いたふりで言った。


「この近くにSAはねえ。ガマンしろ」運転手の目つきが一瞬で陰険に変わる。


「ではお急ぎを」そう言いながら警察に通報のメールを打つ。



突然、車が急ブレーキ!


彼女は本能的にお腹を守り、前席へ激しく叩きつけられる。


眩暈が襲った。


ドアが乱暴に開けられ、携帯が力づくで奪われた。


「警察に通報する気か?」運転手は冷笑しながら地面へ携帯を叩きつけた。


「いくら欲しい?」と凛子は恐怖を抑え、静かに言い放った。


「桜庭秘書」運転手が不気味に近づく。


「他人の獲物に手を出す分際で、済むと思ってたか?」


「竜也組長の差し金か?」


「頭いいな!」突然凛子の髪を掴んだ。


「黒崎組長がちょっとした金を持ち出しただけなのに、お前ら吸血鬼どもはぼろ儲けしてるんだから、分け前ぐらいよこせよ?なのによ、お前は真っ向から生きる道を絶つってか?」


頭皮を抉るような痛みに、凛子は歯を食いしばって、「組長の倍出す」と言った。


「ふん!」運転手が唾を吐いた。


「黒崎組長は俺の恩人だ。金で動くお前らとは違う」


凛子は最初からだめ。


今はあの通報メールだけが頼りだ。


もし届いていなければ、哀れにも小早川の顔が脳裏をよぎる。


白が新婚の祝い酒を酌み交わす頃、自分はこの荒野で音もなく消えるのだ。


「組長が私に会いたがってるんでしょ?」凛子は突然運転手を押しのけ、車内に戻る。


「余計な話はよせ。早く発て」


運転手は呆けたが、すぐに嗤った。


「兄弟たちが桜庭秘書を見物したがってるぜ。その時はな、大声をあげるんだぜ――」


ドアが乱暴に閉じられ、エンジンが唸りを上げた。


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